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教誨師のkuuのレビュー・感想・評価

教誨師(2018年製作の映画)
3.8
『教誨師』2018年制作日本映画。
大杉漣 最後の主演映画で本作が初めてで唯一のプロデュース作品。
6人の死刑囚と対話する教誨師を主人公に描いた人間ドラマすね。
受刑者の道徳心の育成や心の救済につとめ、彼らが改心できるよう導く教誨師(主に宗教家)。
死刑囚専門の教誨師牧師・佐伯(大杉漣)は、独房で孤独に過ごす死刑囚にとって良き理解者であった。
死刑囚にとって佐伯は格好の話し相手だ。
佐伯は彼らに寄り添いながらも、自分の言葉が本当に届いとんのか、ほんで、死刑囚が平安に死ねるよう導くのは正しいことなんかを苦悩していた。そんな葛藤を通して、佐伯もまた自らの忘れたい過去と向き合うことになる。。。

自分は十代後半から現在は死刑囚当時は未決囚(判決が結審していない被告人)とある機関誌を通して手紙のやり取り本の差し入れ等をしてます。
また、色んな宗教家と対話した時期にも教誨をしてる宗教家もいました。
加えて、兄と慕う先輩も今、累犯刑務所に収監されており、教誨師の必要性は聞いています。多少の知識はあるとは思いますが、勘違いや間違いがありましたらご教示ください。
教誨師てのは、刑務所で受刑者などに対して徳性教育をし、改心するように導く教誨を行う者のことで、
無報酬で、多くの場合、僧侶や牧師など宗教家がその役割を担うそうです。
受刑者が死刑囚の場合、教誨師は、拘置所(死刑執行は刑務所じゃなく拘置所でおこなわれる)で死刑囚と面談できる唯一の民間人となる。
今は法改正で多少面談枠は広がってるそうですが(死刑囚の場合家族からの面談はあまり無いそうです)。
面接を望む死刑囚と対話し、さらに、面接を続けた死刑囚の刑の執行にも立ち会うそうです。
扨、この作品をみてて思ったのはギリシャ神話の『シーシュポスの神話』です。
その話は、神を欺いたことで、シーシュポスは神々の怒りを買ってしまい、大きな岩を山頂に押して運ぶちゅう罰を受けた。
彼は神々の云い付け通りに岩を運ぶんやけど、山頂に運び終えたその瞬間に岩にイカズチが落ち転がり落ちてしまう。
同じ動作を何度繰り返しても、結局は同じ結果にしかならないって感じかな。
余談ながら、敬愛してるA・カミュ(異邦人などの作者)はここで、人は皆いずれは死んで全ては水泡に帰す事を承知しているにも拘わらず、それでも生き続ける人間の姿を、そして人類全体の運命を描き出してましたが。
ひとは同じことを繰り返す苦役で自殺に追い込まれるほどの精神状態に陥ると云います。
人てのは、少しの希望があれば生きていけるが、逆に希望がなきゃ生きていけへん。
教誨師ちゅうモンに、果して希望はあるのんかと当時は疑問タラタラ持ってた。
何を思い歩んでるんか?
今作品でも多少の返答は得れたかな。
『死刑囚がたとえ死刑を執行されても、幸せになった人間は、誰ひとりいない。』
教誨師だけじゃなく、被害者遺族、加害者家族、そして、死刑という難しい問題に真摯に向き合ったことのある者なら、立場を問わず、誰もが共通して胸に感じる『虚無感』虚しさのようなものがあると思う。
今、WOWOWのドラマで『さまよう刃』を観ていてほんと感じます。
被告人は判決が確定してからこそ、罪を負い真の贖罪の道が始まるとも云える。
大きな業て十字架を背負い、厳しい道を進む人を、孤独に己の力だけで支えるのは難しいことやと思う。
大事件の裁判が終結したら、死刑執行の時期が必ず取り沙汰される。
被害者遺族(これは大切なコメントやけど)は胸を打つが、メディアは忖度からかポリスとか検察など司法のコメントをよく流す。
『とうとう仇を取れる』
『正義が貫かれた』
とかの言葉、結局虚しさだけが残る。
法治国家に生きるなら考え続ける義務があるエセサヨクのそれじゃなく真摯に。
もし、自分の大切な人が生身のまま縊り殺すことが仮にあったら、合法とする現場は一体どういうものなのか。
いや、身内違って己本人なら?
社会的に死刑制度は利益をもたらしているんかな。
これからの社会のあり様を考えるために死刑制度は今は凍結し、あらゆる角度から議論してゆかねばならないんちゃうんかと、この作品を通し思いました。
とってつけたようでやらしいけど、そんな問いを遺し示寂された
大杉漣さんの冥福を祈ります。
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