すきま

ゲッベルスと私のすきまのレビュー・感想・評価

ゲッベルスと私(2016年製作の映画)
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皺への光の当て方に少し意図があるのではと思ってしまった。取り調べのようだ。他の2作では語り手に告発されているようだったけど、これは自分達も彼女とい一緒に取り調べを受けているようだった。皺を醜いと書いてられる人は、他人事として観たのだろう。
意識している中では率直に話しているように、声の適度に安定した調子から感じた。無意識で避けている話や記憶の変質はあるだろうけど。
取り立てて要領が良い狡猾な人でもないのだろう。そうでなければ、立場を利用して自分のユダヤ人の友人を亡命させるなどして助けられた気がする。
とは言え、どう考えても、普通に働いていて、ゲッベルスがユダヤ人へ何をやっていたか全く気づかないはずはないと思ってしまう。
推測でしかないけれど、余計なことを見ない考えないよう無意識でコントロールしていて、終戦後に連合軍の取り調べを受けたり釈明しているうちに、本当に気づかなかったと思い込んだのではないか。
5年間の拘置は、相当な経験だっただろう。本当に同じガス室のシャワーヘッドを拘置中の政治犯のシャワー用に転用したのかは分からないけど、何ともぞっとする光景だ。片方は温水シャワーで。
それを知って、106歳まで一人で生きたのはどういう人生なのか、ある意味では生命欲のある人だったのだろう。
何度も思い出してきたけれど、考える程にどうしてたった一人の演説に大勢があんなに熱狂したのか分からなくなる、という言葉が一番印象に残った。
彼女はわたしの祖母達のようだ。世間の価値観を疑問無しに受け入れた。悪気はないごく普通の人達だった。
従順に育った昔の女性がナチに抵抗するのは、まあ難しかっただろうと思う。でもやはり、あのナチスが瘦せこけた遺骸をゴミのように扱っている映像を見ると、これを一度でなくずっと見て見ぬふりできるのか?と理解に苦しむ。
それでも、虐殺事件は歴史上に繰り返し起きていて、ナチスドイツが初めてでも終わりでもなく、今も続いている。
こんな映像を見せられると同時に、ユダヤが世界から虐げられてきた特別な民族だ、とのイデオロギーを同時に植えられたら、やはり信じてしまうかもしれない。
被害者や加害者を特別視することは、次の加害被害に繋がる。どちらも近所のそこら辺にいるような普通の人だったのだ。
彼女が話したように、結局なぜそこまでエスカレートし得たのか、整然と解明はできないだろうと思う。
そこまで至る前のおかしいと気づいた時点で止める最大の努力をしないといけないし、無理だとか言い訳をしている場合でもない。

書いた後でふと思ったのは、彼女は何も気づいていないと自分を騙し通す必要から、最後まで友人に救いの手を差し伸べなかった可能性もある。
知らない方が幸せか不幸かは分からないけれど、わたしはやはり自分については、嫌なことも把握しておきたい、ハインラインの『夏への扉』の主人公のように。一生判別がつかないことも、現実の人生にはあるけれど。
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