SatoshiFujiwara

本当の檸檬の木のSatoshiFujiwaraのレビュー・感想・評価

本当の檸檬の木(2016年製作の映画)
4.2
『顔』に次いでグスタボ・フォンタン2作目の鑑賞。この男、時空を変容させる鬼才。こういう作品は好みですねえ(多分、退屈な人には死ぬほど退屈だろうけど)。

本作、一応はフアン・ホセ・サエールの原作に基づいているとのことだが(余談だがサエールの恐らく唯一の邦訳『孤児』は水声社から出ている)、読まなくても「監督は原作をリテラルに作品化しようなんてこれっぽっちも考えていないだろう」とすぐさま感づくような仕上がりである。言うなればサエール作品を素材としたサウンド&ビジュアル・インスタレーション、か。

『顔』と同様に、ここでも音の凶暴さと生々しさが凄まじい(言うまでもないだろうが、単に音がでかい、という話ではない)。時折耳鳴りのような電子音が鳴るのも異常なら、「声」と自然音のミキシングのバランスも異常(映画界における「アルゼンチン音響派」?)。登場人物はごくたまにしか話をしない。また、話をしてもカメラは基本的にロング、かつ切り返しなど当然使わない。やや遠くの藪や茂みの中から不自然な体勢で見ず知らずの人が話している様子を盗み見ているような風情。これもまた常軌を逸している。

序盤、主人公の男が少年と小舟に乗って川を征くシーンが出現するのだが(川を移動するモティーフは『顔』と同じだ。この2作と『底の見えない川』で「川3部作」だそうです。宮本輝か笑)、ここでの川岸と自然や天候の変化と音彩を繊細に捉える手つきがまた素晴らしい。しかし、これは単に移動中の2人を捉えているという意味合いだけに還元されない異様な過剰さを明らかに秘めている。敢えて名付ければ匿名性=固有の空間性の廃棄、無時間性とでも言うべきか。

この舟と過剰さ、で思い出されるのがストローブ=ユイレの中編『ジャン・ブリカールの道程』だろう。舟に固定したカメラでロワール河の川岸をこれでもか、という我慢大会のような破天荒極まりない長回しで捉えているうちに、ジャン・ブリカールその人もナレーションもロワール河も吹っ飛んでしまうのだ。

本作の終盤。アルゼンチンだから真夏である大晦日、主人公の男やその妻が親戚たちを招いてパーティを行う。終盤に向かうやその情景は何やら背後に遠のいて行き妙なエコーが掛かっていく。男が再び舟に乗って帰りゆくシーンでは不気味な月を映しながらも画面は次第に黒くなり、最後には何が映っているのか全く分からない。そして低く流れ続ける舟のオールの音、エンドロール。本作に音楽は全くない。100%ありえぬが、IMAXで観たいぞこれは。
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