ケーティー

火花のケーティーのレビュー・感想・評価

火花(2017年製作の映画)
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元々あらすじ・ストーリーのない原作をそのまま映像化することに無理がある
しかし、菅田将暉さんの名演は必見


原作を読んだとき、これはストーリーがないので、映像化は抜本的に構成を変えないと無理だろうなと思った。実際観てどうだったのかというと、極めて原作に忠実で、それゆえ失敗している印象だった。近年は、出版社や著者側の立場が強く、原作からの変更・アレンジが困難な場合も多く、結果的にスタッフが不本意な形で映像化されるケースが多いという。そのようなことも聞くので、真相がわからない以上、これが誰の責任かは断言できない。(ちなみに、昔の邦画は、映画製作スタッフのアイデアによって名画を生み出しているわけで、例えば、映画「砂の器」は、脚本家が原作の出来の悪さに困ったが、原作では一行しか書かれていない遍路のシーンをメインに据えてたっぷり見せることで名作に仕立てたことは有名である)

今回「火花」を映像で観て改めて思ったのは、話の本質は型にこだわる男とネタにこだわる男の話であるということだ。主人公・徳永(菅田将暉さん)が師匠として慕うことになる神谷(桐谷健太さん)は、芸人とはどうあるべきか(どう生活すべきか)に拘り、ネタの外連味やキャラに走っていく。一方で、徳永は、いとしこいしに尊敬の念をもっており、アイドル売りや小手先のやり方で勝負せず、自分達の意に沿わない大衆に迎合したやり方をやることはあっても、あくまでもネタがうまければ成功すると信じている(信じたい)タイプである。ここで面白いなと思ったのは、メイン二人のこの分け方は、鈴木おさむさんの小説「芸人交換日記」と同じだということだ。おそらく漫才コンビ、さらには芸人全般にとって、普遍的な問題なのだろう。こうした桐谷と徳永の違いの本質は、原作を読んだ時よりも映像で観ると、よりはっきりした。このあたりは、板尾監督の技もあるのかもしれない。

また、原作との違いでよかったのは、楽器の演奏シーンの改変だ。原作では、神谷が公園で練習しているミュージシャンを煽ると、演奏が盛り上がって自然と聴衆が集まってくる描写が書かれている。しかし、映画ではこれを逆にした。演奏はたしかに盛り上がるのだが、まるでそれが神に届いたかのように、突然雨が降りだし、公園にいた人々は消えて、ミュージシャンと主人公二人だけが盛り上がっているのだ。これは、原作と映画がともにもつ芸を誰に捧げるかというテーマと、所詮本人たちだけが最高と思っていて世間からは見向きもされていない残酷さを克明にする。この改変は、本作のテーマを描く上で、より効果的になっていて、いいなと思った。

このシーンを観たとき、誰のために芸をやっていくのかというテーマをラストで描き、作品としての筋を通すのかと思ったのだが、そこが全くそうなってないわけではないが、やや曖昧な終わり方になっており、よくないと思った。先に触れたように、本作の原作はあらすじ・ストーリーがない。出来事の描写はあるのだが、それがラストのテーマ・メッセージ(ゴール)に向かって、これがあって、そして、これがあってと一つの幹の基で構成され、大きなうねりを作り出すようなものになっていないのだ。小説ならそれでもよいが、映像だとどうしても構成がいる。型にこだわる男とネタにこだわる男の話という本質を捉えて、再構成し、主人公二人を対比的に描きつつ、ひとつのうねりを作り出せばもっと盛り上がっていい作品になったのではないかと感じた。

詰まるところ、この映画は結局、何をしたかったのか?がよくわからなかった。
売れなくて夢を諦める芸人のドキュメントをやりたかったのだろうか。(たしかに、描写にひたすらリアリティーがある)しかし、仮に、是枝監督作品などのように、ドキュメントのかたちをとるにしても、テーマ・メッセージ、すなわち、作品の底流に一貫して流れるものが必要なはずである。そうした観点で「芸人交換日記」を振り返ると、ネタと展開をリンクさせたところもうまかったのだなと改めて気づかされた。

このように映画の作り自体には難点はあるものの、俳優陣はよい。桐谷健太さんは予想通り役にあっていたが、一番驚いたのは菅田将暉さんのすごさだ。
初めの登場シーン、菅田さん演じる久保の漫才コンビ・スパークスはきれいすぎると思った。どさ回りの営業続きで着古した衣裳(ワイシャツ)は、売れない芸人ならもっとよれてたり、夏だから汗でうっすら染みがあったりするだろうと。だから、照明など演出も相まって、なんて現実感がないんだろうと思ったのだ。しかし、ところがどっこい、次第に菅田将暉さん演じる久保がホントに売れない芸人に見えてくるのである。なんともいえない哀しみすらある。(※もっとも、服装もシックになるし、その感じも普通なら汚くなるところがかっこよかったりするのだが)そして、圧巻はラストの漫才。大阪出身だけに冒頭から漫才が自然でうまいと思ったが、ラストの漫才は本当に感動する。原作を読んだ時、このネタは読み物として面白いが、実際にネタとしてやったら頭でっかちすぎて寒いだろうと思った。しかし、それを成立させてしまったのである。これには、ただただ圧倒された。そして、本当のラストシーンである居酒屋で見守るシーンもいい。「アルキメデスの大戦」や「3年A組」など、菅田将暉さんの芝居はいいなと思っていたけど、本作で(素人が失礼だが)この人は本当の俳優なんだなと思った。そんな菅田さんの姿を観て、思い出したのは、長谷川一夫さんの言葉である。たしか「ベルサイユのばら」を初めて演出したときの「歌劇」のインタビューを図書館で読んだときに見たのだが、スターというのは舞台に登場したときは“私は誰々です”という世間の人がもつ、その人の魅力(イメージ)をふんだんに出すが、次第に役を生きていく。そして、観客をひきつけていく。これが、スターの芝居なのだと、長谷川一夫さんは強調していた。(※逆に脇役で印象に残すには、初めは役を生き自然と入って、途中で俳優の個性をワンポイントで出して印象に残すのだと言っている)まさしく、本作の菅田さんは長谷川さんのいうところのスター芝居で、初めはキレイなワイシャツとイケメンぶりで、世間に人気のアイドル俳優の側面を出しつつも、自然といつの間にかくすぶった売れない芸人になっているのである。菅田さんというのは、本物の俳優なのだなと改めて思った。蛇足たが、原作を読んだとき、徳永という人物は又吉さんそのものを彷彿とさせ、菅田さんとはちょっと違うと思ったが、いい意味で期待を裏切られたのである。