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ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャーのlentoのレビュー・感想・評価

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J・D・サリンジャーを伝記的に描いた、習作といった印象の映画であり、僕にとっては、それ以上でもそれ以下でもない作品だった。けれど、とても優れた習作だからこそ、むしろ、それ以上でもそれ以下でもない質感の良さがあったように思う。

映画の語りとして、それ以上になるためには、おそらくサリンジャー本人の他にも、ホールデン・コールフィールド(『ライ麦畑でつかまえて』の主人公)を、何らかの形で映像として立ち上げる必要があったのではないか。

たとえば『アマデウス』(ミロス・フォアマン監督, 1984年)において、サリエリは『ドン・ジョヴァンニ』とモーツァルトを重ね合わせており、そうした演出が、伝記的な要素を超えた、映画としての語りに昇華されていたように。

その意味では、コロンビア大学の教授ウィット・バーネット(ケヴィン・スペイシー)を、主人公にするという手法もあったかもしれない。

あらゆる表現者について言えることとして、表現された作品にこそ、彼らの核心となるものが豊かに、そして鋭く宿されており、表現者本人を追ってみても何も出てこないところがある。結果として、活字よりも映像のほうが飲み込みやすいという、ただそれだけのことになってしまうため、習作という印象が拭えない。

けれど、優れた習作でもあったのは、サリンジャー自身の小さな体験から、あの作品やこの作品の着想を得たことが美しく描かれており、また第二次大戦(ノルマンディー上陸作戦)で負った傷がどれほどのものであったのか、同時代の青年たちに与えた影響がどのようなものだったのかなど、それらがテンポよくドラマチックに描かれていた点にある。

僕自身のサリンジャー体験は19歳のときで、『ナイン・ストーリーズ』、『フラニーとゾーイー』、『ライ麦畑でつかまえて』を一気に読み、当時の日本の現代小説よりも、ずっと現代的で読みやすく、また心情を託せることに驚いたことがある。

その時の読後感のほうが、やはり豊かにサリンジャー自身についても、物語っていたように思う。とはいえ、こうした映画体験もまた、映画が映画になるための条件を認識する際にとても有効であり、決して退屈な作品ではなく、質感も良かった。

それにしても、ずいぶん俺はサリンジャーに似たところがあると思った僕にしても、ホールデンを愛した彼らと同じであり、つまりはそれがサリンジャーの偉大さだったことが、よく描かれている。

そして、ケヴィン・スペイシー演じる教授の講義は、すべてのレビュアーにとって、傾聴に値するものだったことを振り返ってみても、彼を主人公にすることは、有力な語りの可能性だったように思う。
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