河

キートンの電気屋敷/電気館の河のレビュー・感想・評価

3.4
バスター・キートンが映画的トリックを行使しながら家の中を暴れ回る、『One Week』や『The High Sign』のセルフオマージュのような短編。

修了証書の取り違いによって電気技師としての仕事を得たバスター・キートンが一から勉強して富豪の家を電気式の魔法のような家へと作り変える。バスター・キートンのこの時期の映画において、バスター・キートンの映画的トリックはそのおかれた状況を解決し、アクションは状況を悪化させるというルールがある。電気式の家は映画的トリックによって実現されており、そのために富豪の要求は満たされる。状況が解決される。

この時期の短編は全てバスター・キートンが監督脚本を担当しており、映画的トリックを使えるのは登場人物としてのバスター・キートンだけでなく、監督としてのバスター・キートンも同じである。監督としてのバスター・キートンは、本来仕事を得るはずだった電子技師を分身として、登場人物としてのバスター・キートンの設置した映画的トリックを使うことで窮地に陥れる。しかし、登場人物としてのバスター・キートンは、分身を介して映画内に現れた監督としてのバスター・キートンを倒す。

その結果、二人は下水道に吸い込まれ、家の外へと吐き出される。二人がだるそうに視線を交わし合い終わる。これは、バスター・キートンが監督としても俳優としても捨てられてしまったという意味に取れる。バスター・キートンのこの時期の短編は、基本的に監督としてのバスター・キートンが登場人物としてのバスター・キートンに対して介入し窮地に陥れるという構図になっているため、この終わり方は、二人が遂に合流したという意味にもとれるように思う。

同じ時期の作品の多くでバスター・キートンは映画的トリックを禁じられており、状況を解決することができない。「電気技術は彼(バスター・キートン)の才能の一つだったのだ」という中間字幕が挟まれる。ここで、電気技術は映画的トリックと等価であり、さらにこの中間字幕は物語上必要がない。だから、この中間字幕がこの映画のメッセージの全てなんだろうと思う。バスター・キートンは自身の才能を示すと同時に、自分がその才能の行使により捨てられてしまう姿も描いている。
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