シュトルム凸映画鑑賞記録用改め

蜂の旅人のシュトルム凸映画鑑賞記録用改めのレビュー・感想・評価

蜂の旅人(1986年製作の映画)
3.7
難解で陰鬱な映画である。
ミツバチは女王蜂だけが旅立つ、後の蜂は犠牲になるだけだ、ということが冒頭、意味深に語られる。初老の男が蜂の巣箱を車に載せ、ギリシャ国内を南に旅立つ。前に中国でやはり蜂箱を持って南に旅する養蜂家を追ったドキュメンタリーを観たことがある。養蜂家は蜂のために花を追って南に行くのだそうだ。それは暖かな希望を追って行く人生の旅路にも似ている。
出発日、男の娘が結婚をするが、男に笑顔はない。家族の誰にも笑顔がない。娘自身にも。どうやら老夫婦は別れる気配である。男は歳月に疲れ、愛を失くしてしまったようだ。
男は旅の先々で旧友に会う、皆が過去を懐かしむが、希望は過去の幻想の中だけにあり、誰にも敗残の影が漂っている。そして、それが老いたる文明国ギリシャの国自身の命運と否が応でもだぶらせられる。
<唐辛子の木に登って 唐辛子を取ろうとした 唐辛子の木は折れて 手の中はからっぽ>
という歌が度々口ずさまれる。男の人生は徒労であり、ギリシャの近代の苦闘も徒労であって、何も残らなかったと暗示させる。
男は旅の途上で若々しい女と出会う。女に振り回されるが、刺激を受け、妻を連れ出そうと試みるが、妻との凍りついた愛は戻らない。若い女を連れ出し、交わるが、女は自分だけが旅立つという。そう、まるで一人だけ旅立つ女王蜂のように。
テオ・アンゲロプロスは『ユリシーズの瞳』を観たことがある。同作品も壮大な徒労の最後にほんの少しだけ、私は希望の片鱗を見た。
同じように本作においても、たとえ残った者が皆、犠牲になったとしても、若き女王蜂が旅立ったことには徒労の意味があり、希望があるのではなかろうか。
ミツバチは人間の世界のように組織だった擬似的な社会性を持っているので、『ミツバチのささやき』や本作のように暗喩性、暗示性に富んでいるのかもしれない。そんな事も考えさせられた。
ツタヤDISCAS視聴。