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彼らが本気で編むときは、のkuuのレビュー・感想・評価

彼らが本気で編むときは、(2017年製作の映画)
3.9
『彼らが本気で編むときは、』
映倫区分 G
製作年 2017年。上映時間 127分。
『かもめ食堂』の荻上直子監督が5年ぶりにメガホンをとり、トランスジェンダーのリンコと育児放棄された少女トモ、リンコの恋人でトモの叔父のマキオが織り成す奇妙な共同生活を描いた人間ドラマ。
生田斗真がトランスジェンダーという難しい役どころを真摯に挑み、桐谷健太がその恋人役を、珍しく静に演じる。

11歳の女の子トモは、母親のヒロミと2人暮らし。
ところがある日、ヒロミが育児放棄して家を出てしまう。
ひとりぼっちになったトモが叔父マキオの家を訪ねると、マキオは美しい恋人リンコと暮らしていた。
元男性であるリンコは、老人ホームで介護士として働いている。母親よりも自分に愛情を注いでくれるリンコに、戸惑いを隠しきれないトモだったが。。。

生田斗真が演じるリンコが完璧なまでに女子力高い役割を採用したのは、このキャラをシスジェンダー(性自認と生まれ持った性別が一致している人)が主流の観客にできるだけ親しみやすいものにしようとする、映画監督の荻上直子による意図的な試みであることは確かと云える。
リンコは、仕事のできる介護士、家に帰れば家事を家事えもんよりこなすキュートな女子。
ほとんどいつも温かい微笑みを浮かべている。
毎日家の中をきれいにして、おいしい食事を作り、毛糸を編む。
荻上監督は、アメリカに住んでいたときに日常的に目にしていたLGBTQの人たちが、日本ではセクシャルマイノリティに対する理解が他国に比べて高い方ではないとショックを受けて、この映画を作ろうと思ったという。
しかし、今作品は、トランスジェンダーを肯定的に捉えるどころか、ほとんど認めていない日本映画界にとって、画期的な出来事かな(最近はそうじゃないが)。
生田斗真のスター性は、少なくともトランスジェンダーの問題に(おそらくは初めて)今作品を見た誰かの関心を持つきっかけになってるかもしれへん。
このような家庭的なライフスタイルが持つ慣習的で非対立的な側面と相反して、今作品では性的なものに対する進歩的な姿勢が見られる。
リンコがトモのために作るかわいいお弁当以上に、2人の距離を縮めているのは、リンコの体に対するオープンな姿勢。
リンコがトモに自分の人工の胸を触らせたり、自分の性器についてオープンに話すシーンがいくつかある。
映画のタイトルは、リンコが映画の中で編んだ108個のカラフルで象徴的な毛糸ペニスにちなんでおり、彼女は後に、男性としてのアイデンティティを永遠に手放す儀式として使う(儀式でつかうって怪しげにとらえられそうですが否)。
トモとマキオは楽しそうに編み物を手伝っている。
実際の性器は画面外にあるが、マキオの性器の大きさについて公然と冗談を云うシーンがある。
『あなたのは、きっとこれほど大きくないわよ!』と。
トモとリンコが特大の毛糸のペニスを振り回しながら、自分のペニスの大きさを公言するシーンが、なんとも華やかできわどい笑。
リンコは多くの子供たちが親とセックスについて話すことに抵抗があるという、性にまつわるタブーは持ち合わせていない。
『ナチュラルウーマン』 (2017年)のマリーナが、従来の異性愛者のライフスタイルを採用しながら、それに伴うトランスフォビア(トランスジェンダーの人たちに対する嫌悪感や恐怖感など、否定的な感情や価値観)な態度を排除したように、今作品のリンコは、性的なものをめぐる偏見を排除した家庭生活を慎重に設計している。
彼女は、人々が、特にトモが、ジェンダー、セクシュアリティ、アイデンティティについて安心して話すことができるような環境を作り出している。
理想的な環境と現代では云える。
トモがリンコの身体に注目するのは、性同一性障害を単に身体を変えたいという願望に還元するためではなく、精神やアイデンティティに与える深い影響を無視するためでもない。
むしろそれは、トモの子供らしさ(子供はしばしば身体に特に大人の身体に興味を持つも)と、リンコへの純粋な尊敬の証でもあるんかな。
リンコが『女子になりたいって思っただけ』と説明しても、トモは彼女の願望や移行する動機に疑問を投げかけることはない。
むしろ、尊敬の念を持って、自然にリンコを信じ、耳を傾けている。 
温かいなぁ。
しかし、今作品の登場人物は皆、この理想的な家族のあり方を崩そうとする。
トモの同級生のカイの母親は、トモの世話をトランスジェンダーの女性がしていることを知ると、トモに近づかないよう息子に云う。
カイもまた同性愛者であることを同性愛者やトランスジェンダーである母親から隠さなければならない一方で、フラッシュバックでは、リンコの母親が、男性の体に閉じ込められた女子のように感じると宣言した息子を助けるシーンが映し出される。
このシーンは、監督が新聞で読んだ実話にインスパイアされた美しい瞬間であると云えるかな。
このような展開が二重に感動的なんは、それが稀有なことでもあるからやと思う。
多くの映画がLGBTQに起こりうる最悪の事態を描いているのに対し、今作品はトランスジェンダーのあるべき姿、すなわち平和で、幸せで、リラックスした体験を提示することに喜びを感じている。
そのため、これほど感動的で希望に満ちた場面の後に、悲劇的で悲しい結末を強要するのは、むしろ奇妙であり、サディスティックですらあるように思えるかな。
カイの母親の否定的な態度は、すぐにトモの母親も同じように、映画の最後に戻って来て、惨めなアパートに娘を連れて帰るように要求する。 
この女性は、トモの実の母親であり、子供を産むことができる女性である自分は、本来リンコよりもトモの面倒を見ることができるとほのめかす、恐ろしいシーンがある。
今作品は、リンコ、トモ、マキオがそのような発言にショックを受けるのを共有しながらも、トモの母になるというリンコの夢は打ち砕かれ、不愉快な結末となる。
LGBTQのキャラを扱った映画にありがちな(『ボーイズ・ドント・クライ』1999年作など)幸せな瞬間が、決して長続きしないという憂いを帯びていないのは、今作品の評価すべき点かな。
今作品の悲しい結末は本当に驚くべきものであり、だからこそ、トランスジェンダーのキャラの幸せな人生を垣間見ることができると云える。
おそらく、いまだにトランスフォビアな社会を刺激するために作られたのだろうが、今作品は、トランスジェンダーの人々が直面する不公平さだけでなく、社会がもっと寛容になれば、どんな喜びがあるのかということも印象に残してくれました。
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