開明獣

天使の影の開明獣のレビュー・感想・評価

天使の影(1976年製作の映画)
5.0
映画とは何か?音声つきの動画は、不可逆的な時間の流れで観るものに供与される。音楽が付与されることが一般的で、演出の一部となる。大抵、2時間前後の長さで、なんの予備知識もなく観に来る人も多い。

上述以外に特に定石はない。セックス、暴力、恐怖、政治、宗教、家族、近未来、絶望、憎悪、ペーソス、料理、愛情、スポーツ、金儲け、戦争、何を描こうが自由だ。映像作家が描いた作品と鑑賞者がシンクロ出来た時に、えも言われぬ感動を呼び覚ますこともあれば、唾棄すべきと感ずるような嫌悪しか感じないこともある。薬のように、癒しを与えてくれることもあれば、毒にしか感じないこともある。

脚本だけで、本作の監督こそしてないが、ファスビンダーは、恐らくは、"映画"を撮り続けなければ、人生を全うすることが出来なかったのだろう。だが、真にクリエイティブな仕事には異常なパワーを必要とするのだろうか。薬物に依存してやがて自分自身を破滅させていくファスビンダーの内面の葛藤と、作品を作り上げていく喜びと、両方私たちは見ているのかもしれない。まさに、薬と毒と。

戦後の西ドイツの復興期から東西統合前までを生きた中で、ネオナチとも誤解されかねない描写に満ちたこの過激な作品は、人生という汚穢に満ちている。登場人物たちは、破滅へ向かっているのが分かっているのに、それを止めることは出来ない。それを美学としたファスビンダーは、最初から死の予感に捉えられた映像作家だったような気がする。

プラトンは、ソクラテスの口を借りて、エクリチュール=書き言葉、より、パロール=話し言葉の方が、言葉として意義のあるものだと、エジプト神話の逸話を借りて語っている。だが、映画には脚本というエクリチュールがあって初めてパロールが顕現する。繰り返しになるが、薬が治療にも毒にもなるように、ものごとには全て両義性がある。

ファスビンダーは、破滅と創造という両義性を体現した映像作家だったのだろうか。そんなことを、つらつらと考えてしまう作品だった。
開明獣

開明獣