天豆てんまめ

映画 聲の形の天豆てんまめのレビュー・感想・評価

映画 聲の形(2016年製作の映画)
4.2
この映画は一見、障害を抱く女の子と元いじめっ子、今いじめられっ子の恋物語かと思って観始める。でも、その入り口を超えて普遍的な痛みの昇華の物語だということがわかる。心の内奥を抉られ、観終わっても心が揺さぶられ続ける真の名作だと思う。

最初は3年前に、高校に入学する長男と、中学に入学する次男と一緒に観た。冒頭からいじめの辛い描写が続き、次男は離脱して、スマホゲーム荒野行動を始めてしまった、、最後まで観るにはそれなりの耐性を強いられる映画かもしれない。長男と私は固唾を呑んで、最後まで見つめ続けた。そして終わって、しばし沈黙の後、見合った。「凄い映画だった」

中高の頃、私は合わない人とは距離感を置いてきた。自分を守る処世術として。でも、本当はその人の表面だけを見て、固定概念で決めつけていたように思う。ひとりひとりのその奥をじっと捉えて、受け止めていく。10代の時にはできなかった。彼のもがきは10代の頃の痛みを幾つか想起させてくれた。私は重いいじめを受けたことは無い。ただこの映画を観ていて思い出したことがある。

中学に入った後すぐ校舎3階の廊下の窓際に腰かけていたら、学年で一番身体のでかいラグビー部(私がいた中高一貫校はラグビー花園常連で学園ヒエラルキーのトップに常に君臨していた)の男が冗談のように私の身体を持ち上げ、窓の外にぐっと押し出す(私は全く冗談とは思わなかったが)という暴挙に出た。私は根っからの高所恐怖症。心底ゾクッとしてその後震えが止まらなかった。彼はにやっと笑ってその場を離れたが、私は決して許さなかった。自分の尊厳が傷つけられたと感じた。

そしてそれから6年、私は彼に話しかけることはなかった。そして二度とそんななめたようなことはさせないと誓った。行き集団登校バスでも一番後ろにラグビー部の連中が占拠しても堂々と割って座った。野球部を続けつつ、成績は文系TOPを続け、学年における自分の立ち位置を明確にした。「そして二度と俺に手を出すな。舐めた口もきくな」と目があえば睨みつけた。彼以外の皆にはいつもにこやかに接した。私は自分の周りに壁を作った。彼は私と目が合うと逆に目をそらすようになった。当時はそれでいいと思っていた。それでしか自分は保てないと思っていた。彼も相変わらず別のターゲットをいじっていた。それでしか自分を保てないようだった。

でも、結局彼は本当に冗談のつもりだったかもしれない。私が彼を一切受け入れなかっただけなのかもしれない。この映画を観ていたら彼に申し訳ない気持ちが溢れてきた。ただ当時はそれ程頑なだった。卒業間近に、彼が私におずおずと話しかけたことがある。でも私は「ああ」とだけ呟いて、彼を受け入れることはなかった。なんたる己の小ささよ。25年も忘れていたことをこの映画を観ていたら思い出した。自分のその偏狭さを。今、もしその時に戻れるなら、私は彼を受け入れられるだろうか。

この映画は普遍的な映画だ。皆、観る人をあの時の痛みを思い出させ、今の自分の奥も照らす。辛い虐めを受けた人も、いじめをした人も、傍観決め込んだ人も、そういったことまでいかなくても、あの頃、全ての人は人間関係の立ち位置一つで自分の身の置き所が変わってしまう緊張感を味わったことと思う。その人その人の経験によって、抉られるポイントがある普遍的な映画だと思う。

後半、彼が辿り着く心境に涙が溢れた。もっと大きく、深く、包める人間になるには、どうしても強さが必要だ。この映画で問われている勇気と痛みと覚悟は10代のものだけではない。きっと人が命終えるまで試される人間的成長を描いている。

こんな難しく繊細な映画を忍耐強く製作しきったクリエイターに賛辞を送りたい。


そして、3年ぶりに観て、息子たちは大学1年、高校1年となりまさに青春真っただ中、新たな学園生活を時に、痛みや葛藤を抱えることはあるだろうけれど、そこも含めてまるごと青春全部を生きてほしい。

そして決してあの時の私のように表面でその人間を決めつけるようなことはしないで欲しいと思う。

難しいことではあるけれども。この映画はそんな難しいことに挑む勇気を与えてくれる。