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何者のkuuのレビュー・感想・評価

何者(2016年製作の映画)
3.7
『何者』
映倫区分G.
製作年2016年。上映時間97分。

朝井リョウが直木賞を受賞した『何者を映画化。 
就職活動を通して自分が『何者』であるかを模索する若者たちの姿を、佐藤健、有村架純、二階堂ふみ、菅田将暉、岡田将生、山田孝之という若手俳優キャストの共演で描いた。
監督・脚本は演劇界の鬼才・三浦大輔。

演劇サークルで脚本を書き、人を分析するのが得意な拓人。
何も考えていないように見えて、着実に内定に近づいていく光太郎。
光太郎の元カノで、拓人が思いを寄せる実直な瑞月。 
『意識高い系』だが、なかなか結果が出ない理香。
就活は決められたルールに乗るだけだと言いながら、焦りを隠せない隆良。22歳・大学生の5人は、それぞれの思いや悩みをSNSに吐き出しながら就職活動に励むが、人間関係は徐々に変化していく。

今作品を見るにはオッサンになりすぎたかと思うタイムリーじゃ内容でしたが、主要な役者陣のパワーで押し切られた感じで飽きずにみれました。
現在エンタメで一線を張ってる俳優ばかりなので各々の役柄に徹していて天晴れ👏やと思いました。
今作品の醍醐味は最後のネタバレのところかな。
小生はニヤリとイヤらしい笑みを浮かべ現代社会へは悪くないななんて一人故知。
個人的には、良く考えたら今作品は、リアルな人生においてさほど劇的なことじゃないにせよ、彼らの時代にはそれはそれで、すわ一大事なんやろと演技で伝わる作品でしたし、善き作品やと思いました。

ここから、あーでもない、こーでもないお話ですので、マドッコロシイの苦手な方はすっ飛ばしてください。

『何者か』になりたい。
『何者にも』なれない。
こうした願いや悩みは古今東西、老若男女あると思う。
少なからず、こないな願望は時に懊悩煩悶と変わる。
人の自己同一性(アイデンティティー)が確実視できないんは現代特有のものやと思う。
明治以前の戦国以外の太平では、血脈による立場や家柄で、この何者かになるかほぼ決定していた。
そうやからこそ、今作品のような何者かについて懊悩煩悶はするものの、諦めに似てるかとはおもうけど、宿命として受け入れ悩み続けるのは少なかったやろう。
現代は、こないな『アイデンティティー探しが』時代の流れになり、現在のサブカルの常なる底流としてある。
現代経済、特にリーマン世界じゃ何者かになりたいと欲する人たちが、政治と経済の妖怪が跋扈する潜窟で天蚕糸ね引いて待たれ、いいように食い物にされている。
悩める者は、己は行く先を求めている者にもなれへんかもなんて嫌な想像がふくらむ。
唯一無二の自分のあり方を確立しようとする当事者の意識とその実践が、まさに熟したのが今作品の時期やと云えるんじゃないかな。
資本主義の法則に進んで従う特性と云える、没個性的な集団から離脱することを望み、またそれを望む個人主義的な文脈や、その文脈を肯定的に発信するオピニオンリーダーに強く惹かれたのは偶然じゃないんちゃうかな。
自称メンタリストや一発当てたオタクの実業家など。
せや、実際、現在の20歳代の若者たちには、
何者かになりたい、
何者にもなれない、
合わせ鏡に過ぎず、もう同じ熱量では共有されていないのではないかなんて感じる。
なら、いったいどないして進むべきかちゅう問題を、深刻なモンやと意識として強く内面化しとるんは、若者といっても、今作品の拓人や光太郎の10才ほど上の多感な時期を過ごした、年長の若者(若者に入るのかとは疑問やけど寿命を考えると若者)じゃないかなと推測する。
今作品の青年たちの実存性の危機てのには、そこまで重大な問題意識を持っていなように思えるし(就職をゴールのように見てるだけで)、これに苦悩とまでの怯えもない、幻影に怯えてあたふたしてるだけに思える。
若い意識高い系兄ちゃんが、何者かになってみせると欲し、いろいろな意味で突飛してる人もいるから、実社会でも何者かになりたいという問題意識を抱く若者は多いはずだと帰納的に考えてしまう。
しかし、実際、学生時代を離れた実社会においては、多くの若者たちは何者かになるちゅうことを熱量多めで望んでるわけじゃなく、むしろモブ(理性的ではない群衆、何らかの主張や意思を持たずに行動する連中などの、やや過激的な意味を持つ言葉)として生きること、生きられることの方に、よりはっきりとした意識を向けつつあるように小生は感じてるし、それは幻影でしかないのを気付いて欲しいと老婆心ながら思う。
社会や時代の大多数の流れに、爪や牙をむいて楯突いたりたりはせず、だからといって流れの水底に沈むこともない、あくまでも無名の群衆のなかのひとりとして強かに生きる新たな時代精神に向かってるって思えて怖い。
令和になっても、何者かになりたいちゅう問題意識はあるやろとは思う。
が、しかし、言葉が先行してあるのみ。
本来先人たる者の中には導く存在も必要だし、実際は存在するんやろけど、そう云ってすり寄る先人や悪賢い奴らは、若者のその何者かになりたいちゅうポジティブな欲求を利用し、彼らを搾取するダークなビジネスで餌食にしてることも少なくない。
(小生の後輩のクソは、副業あっせん名目ジョブフィット特殊詐欺で若者達から10億円近く巻き上げ、そのゼニで豪遊していた。当時、売れたいモデルやら某アイドルグループとパーティーをひらいてはどんちゃん騒ぎしてたのにメディアは弱りかけのプロダクションのとこからすっぱ抜き記事にする)
そないなクソが居るからこそ、若者はより慎重にならざる得ないのかもしれない。
もっとも、若者の中には一般社会のデカイ共同体の中で、なんらかの才能によって、何者かなし得て卓越した個として輝くモンもいる。
適材適所に人は置かれれば能力を必ず発揮するし、先に歩む者(親や家族も含め先輩たち)の選抜(導き)の能力が大きいのかもしれへん。
けど、その若者が能力を発揮して一人だけが生き延びるわけではない。
その個とする一人の何者かによって得たリソースを、顔の見える、手を伸ばせばその身体に触れられるつながりの関係にある仲間たちとシェアすることを厭わなければ、彼らの周りには、
彼らほどは何者でもない仲間たちが、数多くともに生きれ共に成長できる。
だけど、それもなく他を貶して貶め、足を引っ張る。
むろん例外はある。
20歳代でも何者かになりたいちゅう自意識をマジに持つ人はいる。
だけど、そないなタイプの若者は、没個性的な社会に抗い、自らの実存性を死守したいという個人主義的・自由主義的な動機でそうしているわけじゃないと感じる。
そうではなくて、集団主義的なキマリや道徳を遵守することになんらかの苦手意識をもってる人が多い。
たとえ何者にもなれなくとも、仲間たちと粛々と日々を暮らすことに支障をきたすからこそ、必要に迫られて何者かにならなければ生きていけないという背水の陣とでもいうべき自意識を内面化している。
何者でもない、
しかし、強かに生きる者たちが集まり、小さくとも根強い共同体を形成して生きていくマイクロ共同体が現在の若者の基本的な考え方となりつつある。
何者にもなれないことは、そこでは大きな問題ではない。
むしろ逆やと思う。
何者にかなれなければ生きていけないような風潮を強める社会に、仲間と集まり図太く生きていくことで、抵抗するという機運が高まっている。
何者でもない自分てのを包摂してくれる共同体は、すでに実社会に数多く存在する。
おそらくは、何者かになりたいちゅう欲求をくすぶらせた社会性の低い、それでいて自尊心は高い若者をかき集めて搾取し、オーガナイザーだけがひたすらに潤うオンラインサロンやねずみ講のグループよりもずっと、若者たちは何者でもない自分たちが、それでも潰されずに生きていくために、仲間と乗り切っていくという、より実用的(プラグマティック)な社会観や時代感覚を持ちはじめている。
かつて、己の実存性って云った形而上的な問題について不安を募らせ、あれこれと思索をめぐらせることができたのは、よくもわるくも社会に幾ばくかの余裕がまだあったからとも云えなくはない。
社会にも実家にも相応の蓄えたが残されていたからこそ、高学歴の人文系青年たちの自意識や社会的葛藤が主題になりえた。
言い換えれば、それはこの国が社会経済的に文字どおり世界の頂点をきわめていた豊かな時代の最期の置き土産やったんかもしれない。
いまの若者は何者にもなれないってことにひたすら煩悶していた、かつての多感な青年たちよりも逆に随分と大人に見える。
傍から見ればたしかに立派やけど、同時に寂しさも感じる。
それは自分は何者で、なんのために生き、どこへ向かっているのかなんか抽象的で哲学的な問いを唱えるような余裕が、彼らにも社会にもすでにないことを示唆しているし、話せば煙たがられる。
彼らは今を生きる、そのためにどないするべきかちゅうよりプラグマティックな世界観のもとで生きている。
何者かになるちゅう道は、そないなプラグマティズムに基づく生き方のひとつとして選ばれることはあるけど、それ自体が目的化・問題化しているわけじゃなく、若者たちは、
自分が何者かちゅう深淵なる問いに悩むことはあまりなくなった。
それは喜ばしいことなのか。
それとも。。。
本作品はそないな(長くてすいません)問をストレートに投げ掛けてくれる作品かな。
kuu

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