すがり

シン・エヴァンゲリオン劇場版のすがりのネタバレレビュー・内容・結末

5.0

このレビューはネタバレを含みます

感情爆発してて長文。
もしも読むような奇特な人がいたら先に言っておきます。ありがとうございます。

2021年3月8日。
この日は、起床からの朝8時。
『:序』を見始めました。
見終えて、少し間を空けて。
11時半。『:破』を見始めました。
13時半。『:Q』を見始めました。
16時。劇場へ向かいました。雨が降っていました。
17時を過ぎて、そのときが来ます。

上映が終わって館内が明るくなるころには、私は拍手をしていました。ごく控えめに。
他に一人バッチリ拍手している人がいたので「え、マジか、どうせならちゃんとしとけば良かったかな」とちょっとソワソワしたのは言うまでもありません。

終わってしまったね。エヴァンゲリオン。
完璧に。確実に。完全無欠の終劇。

林原めぐみさんがラジオで「ヱヴァンゲリ、を、ンする」とか言ってたのが今となっては懐かしいね。表記戻ってたもんね。『エヴァンゲリオン』だったね。
新世紀もめちゃくちゃ強調してたね。「ネオンジェネシス」言ってたね。
正直泣いたよね。あの瞬間。
自分はそういう作品構造にとんと弱い。
伏線回収というより原点回帰。回帰路線に弱すぎる。
ふり出しに戻ったわけじゃない。
多くを経験して、試して、挫けて、立ち上がって、紆余曲折の後にたどり着くスタート地点。
何もかもが違う始まりの場所。
自分自身その理由はよく分からないけど、とにかく弱い。

ちょっと違うかもしれないけど、インパクトによる汚れなき浄化された世界も、『心よ原始に戻れ』も、『集結の園へ』の「おかえりなさい」も、母を宿したエヴァだって、広く回帰路線かもしれないとか考えると、自分はもう『エヴァ』に弱い。

今回この、完全な終わりを迎えた『エヴァ』だけど。
今更に改めて、庵野総監督は本当にとんでもない人だと思う。
『:Q』ではそれが既に表れていたけれど、『シン・』で物語におけるエヴァンゲリオンは全て回収したもんね。
いや、それを回収したからすごいという話ではなくて。
つまり『シン・』を見て分かるのは、あのTVシリーズの終盤から最終話。
あの最終話で本当にきっちり完結していたんだなということを感じるわけです。
当時TVシリーズを作っていた現場の事情まではさすがに知らないから、自分の感覚に裏付けは取れない。
でも多分根っこは一緒なんじゃないかと思う。
『シン・』はもう、完璧に、完全な形で、当時何らかの理由で描き出せなかったところを改めて終劇させた。そんな印象を受けます。

TVシリーズはアニメ好き、ロボ好き、そうやって単純化した好きで見ていたとしてもめちゃくちゃに面白い作品であることは疑いようがない。
それでもそれが終盤、最終話、ああいう形で描かれることになったその終わり。
良かったのか悪かったのか、だからこそ『エヴァ』は流行りという意味での社会現象にとどまらなかったわけです。
その後TVシリーズを補完するかと思われた劇場版もなかなかショッキングでしたから「エヴァっぽさ」とかいう謎の感覚も含めて、色んな意味で「残る」作品となりました。

ゲームにしろ何にしろ、その後も媒体は違えど『エヴァ』に触れる機会はやっぱりいくらでもあって。
それでも庵野総監督による構築で生まれるアニメーションの『エヴァ』はそこにしかなくて。
だから新劇場版が始まったときにはそれはもうワクワクしました。
初めて『:序』を見に行ったとき、本編最高に楽しませてもらって自分の中で感情が渦を巻いているタイミング。
余韻に浸り始めたその瞬間に流れた宇多田ヒカルのBeautiful Worldによって自分が肉体ごと飛散したのを覚えています。

続く『:破』でもそう。
ちょっとだけ『:Q』を感じさせる空気が混ざっているとはいえ、特にエンタメに寄っていたからやっぱり最高に楽しめたわけです。
ごくシンプルに面白かった。

ただしこの二作は明らかに焼き直しというか、総集編とでも言うべき「新解釈」的な「新」劇場版でした。
TVシリーズの流れに即していたから余計にそういう印象が強かったんでしょうね。
『:破』のラストから予告にかけてはそこから逸脱して行ったのでさらにワクワクしました。

そして問題の『:Q』が公開。
衝撃ではあった。その落差、高低差に。
14年の空白を埋められないシンジくんとまさに同じ感覚。
でもね、同時にすごく楽しかったし嬉しかった。
なぜなら『:Q』は冬月との会話などで結構しっかりと、公式から改めて説明が入ったでしょう。
総集編的意味合いを感じられた『:序』と『:破』に対してここまで明確な要素が入ってくるということは、白黒つけてくる可能性が高いということで、それは、嬉しいでしょう。
物語というものは、始まって、終わることで初めて力を持つものですから。
その意味でも、他二作に比べて『:Q』はこの本編のままでは終われないんです。

例えば『:序』であれば、とても分かりやすく物語の始まりの始まり。登場人物と世界観、状況の設定がある。目的もはっきりしている。その目的を達成もしている。
登場人物同士の絡みもあって、この一本ですでに完結しています。

『:破』もそう。真希波が活躍することで世界観と状況設定を済ませる。
シンジくんたちの側に帰ってきてもすぐにアスカが出ることでそれを終える。
日常パートが挟まることで登場人物たちの関係性も見えてきて、『:序』に比べれば『:Q』が混ざるので分かりやすくは解決しませんが、明確にクライマックスも終わりもある。

つまりこの二作はどちらを単体で見ても一本の映画として始まって終わることができるわけです。
ところが『:Q』は違う。
始まって状況設定はもちろんします。
ただし初めて見る人の心の置き所がどこにもない。
この世界における「過去」が「前提」としてその上に成り立っている一本なんです。
単に作品世界の過去があるという場合と、それが前提になっている場合では見せ方もだいぶ変わるはずです。
もし『:Q』が一本で完結できる作品で、単に過去が存在しているという作品だったなら、本編は2時間になったでしょうし、その内の半分はブンダーにいてもおかしくありません。
あるいは「旧」劇場版の再来が起きていたかもしれません。

だから『:Q』では、終われない。
物語としても、「新」劇場版としても。
過去が前提となっているのなら、未来だって前提になってしかるべき。
要するに『:Q』は繋ぎの一本。
この次、つまり最終作に対する壮大な、そして最高に贅沢な状況設定。
それが『:Q』なんです。

このちょっと荒唐無稽な感じ。
これが『:序』『:破』と続けてきたところとのギャップが激しくて、否定的な意見もありましたし、その雰囲気こそ『エヴァ』を『エヴァ』たらしめるあの謎の「エヴァっぽさ」だとして肯定する意見もありました。

はっきりしているのは『:Q』の構造は今まで『エヴァ』を見てきた人たちに、シンジへの感情移入を促しているということ。
『:Q』はどうしたって一度はシンジの目線で見るしかない。
ということは、当時のTVシリーズから始まって今までの時間。
自分たちのこの世界で生きてしまっている、成長してしまっている人たちに、もう一度シンジの目線を、「14歳」の目線を思い出してもらう。
その作業、リセットも『:Q』の役割なんです。

自分は『:Q』以降、最終作に対して特に何かを考えるつもりはありませんでしたし、『:Q』を客観的に感じることのないように努めてきたつもりです。
もしも最終作が公開されないならそれはそれで良い。諦めるしかない。
公開されるなら、その時は『:Q』で改めて促してもらったシンジの目線で。
「14歳」の目線で最後を迎えたい。


途中『シン・ゴジラ』が公開されたときはさすがに「エヴァどこ……?」ってなってましたけど。いや『シン・ゴジラ』めちゃくちゃ面白かったのでokです。
そういえば『シン・』にも無人在来線爆弾みたいのあったね。かっこよかった。


そこでね。
ついにその日。
ほぼ9年という時間が経ってしまって、自分がどこまでシンジくんを保てたのか実はかなり疑問もある。
でも直前に解禁して全部見直したからね。なんとかなったと思う。

これだけ前置きみたいな長文書いてきて最後はやっぱりこれしか言うことなくて申し訳ない気もする。

でもね。

最高だったね。

だって、全部。全部だったじゃん。

『エヴァ』シリーズ見てきた全てのカタルシスがここにあったじゃん。

庵野総監督がとんでもない人って上に書いたけど、つまりこういうことなのよ。
アニメが好き、ロボものが好き、単純にかっこいい、単純にかわいい、明かすべき謎がある、考えるべきことがある、誰かがいる、自分がいる、時間は流れる。
『エヴァ』ってなにって話になったら、言うべきはネルフだゼーレだ使徒だ槍だなんてことじゃない。
「大人と子どもの狭間、思春期の少年少女が大きな力の中で他者と関わり、自分を省み、成長を遂げて各々の道を行く。それが描かれた最高にカッコいいアニメ。」
こういうことなんですよ。

そして『シン・』ではこれが網羅されてる。

まず真希波が最高にかっこいいかわいいじゃないですか。
自分はもう『:破』で真希波にベタ惚れしているので出てくるだけでも嬉しいのに、どこで出てきてもかっこいいしかわいいしでほんと何なんあのキャラ。

途中もね、ビビりましたよ。
突然綾波が農業してるんだもん。
でもこれがもう心をどこまでもぽかぽかさせてくるわけです。

そしてこの綾波がシンジくんの立ち直るきっかけになるという話の流れ。
素晴らしすぎませんか。
過去作のイメージというものがあるからこそ、当たり前と言えば当たり前なのかもしれないところ、あの場所というか世界においてシンジくんに本当に寄り添うことができるのって綾波だけで。
他の人たちは14年という時間を流れてしまっている。
でもあの姿で直接生み出されている綾波は、過程は違えど状況は一緒。
鈴原家の赤ん坊を見た綾波のセリフからもそれが分かります。

思春期は大人と子どもの狭間。
そのどっちつかずで脆弱な時間を生き抜くのに、支えがあるにこしたことはない。
本来それは親の役目でもあるわけですが、難しい場合もある。
このときのシンジくんにとってラッキーだったのは、周りの大人がシンジのことをよく理解してくれていたということ。
元々が理解の成り立っていた同級生ですからね。
そして綾波。
経験や価値観を異としていながらも同じ方向を向いてくれる同じ年代の人。
この相互作用は計り知れません。
しかも「綾波」なんです。本来シンジくんにとって200%必要な存在ですから。最強です。

これらの交流によってシンジくんは言葉を取り戻し、なんとか立ち直り、生活を始めます。

結局綾波はその存在を留められなかったわけですが。
このときのシンジくんには泣くしかありません。折れなかったんですから。

カヲルくんの爆散した『:Q』との対比になっていながら『:Q』とは違って歩くことをやめなかったシンジくん。
そして「綾波」がいなくなっても力強く立つシンジくんを見れば、彼が本当の意味での大人。
ただ流れた時間の中に揺れていただけではない。
自立を伴い、大地を踏み締め、道程を築いた大人として、明確な成長を遂げたということがはっきりと分かります。

ここがひとつ。
『エヴァ』の中身を担ってきたシンジくんの成長というひとつのテーマの帰着。
この『シン・』の中としてだけではなく『エヴァ』全体としてのクライマックス。

あのときTVシリーズでものすごくねじれたやり方で終わらせてしまったあの終盤が今ここで、ひとつの決着を見たわけです。

長く続いてきた『エヴァ』という作品の最終作として、これだけでもすでに相応しいことこの上ない。

でも全てを網羅した大集大成である『シン・』はこれでは終わりません。
まだまだ決着をつけるべき事柄が残ってる。
碇ゲンドウという親子関係、物語として。
『エヴァ』を作ってきた側として。
そして、今まで『エヴァ』を見てきた人に対して。

ブンダーに再搭乗してからのシンジくんにはもはや安心感しかない。
落ち着いてるし、アスカの質問にもきちんと答えられるし。
真希波にちょっかい出されても動じないし。
すげえなシンジくん。

『:Q』の回収もしてくれたおかげでヴィレスタッフにもちょっとすっきりしたし。
「ちょっと痛いですけど」とか言って泣きながら銃口向けてくる鈴原サクラちゃんかわいすぎるでしょ。

ミサトさんだってそう。
シンジくんほど明確なテーマとしては描かれてはいなかったように思うけど、かつてシンジくんに寄り添うのに文字通り身体ごと行こうとしたり、「大人のキスよ」とか言って背伸びして強がってたようなミサトさんはもうここにはいないのよ。
強がるんじゃなくて、だってもう、強いからね。

そうやってさ。
シンジくんが明確に成長して以降は細かいクライマックスというか、カタルシスの波状攻撃が『シン・』にはある。
『:破』の綾波もいたし。
親子喧嘩もしたし。最初はちょっとマジかよって面白がってたけど、段々気持ちが良かったねあれ。

過去作との対比的にもシンジくんが語りかける場面も印象的で。
今までシンジくんはほとんどシンジくんとしか会話してこなかった。
それがこんなに、色んな人と、しかも対等に話せるようになったのかよって。
泣くんだが。こんなの。

ゲンドウに決着がついてエヴァシリーズが消えていってさ。
シンジくんが青くなった海眺めてたら画面が絵の完成品からコンテの方まで変遷していって、真希波の登場で元に戻るじゃない。
あれも『シン・』で見るのなら、改めて決着だったのかなって思う。
あの瞬間こっちとあっちで世界を混ぜてるもんね。
そうすると最後の最後にも納得行く気がする。

『:Q』で散々強調してきた「エヴァの呪縛」も、あんなのどう考えても作品内の一要素では終わらないじゃない。
作ってる側と見ている側に一定以上の影響がある。
そして『エヴァ』シリーズでも特に印象的な電車の中のシーン。
過去作からずっと、ずっと、ずっとゆらゆらどこともなく揺られていたけどさ。
『シン・』ではついに身も心も降りて。
駅を出て。
あれこそ「エヴァの呪縛」だったのかとも思う。
であればこそ、駅を出た先を見るにあの変遷に決着を感じても良いんじゃないか。
画面を見ながら、しみじみ、そんな風に思ったね。

それで、改めて思うわけです。
TVシリーズの終盤、最終話のあれで、やっぱりちゃんと完結してたんだなあって。
あれを丸々肯定するかって言われたら、それはそれでちょっと難しいんですけど。
なんか、うまく言葉が出てこないときとかあるじゃないですか。
自分の場合は絵がめちゃくちゃ下手なので、自分の中では確実に存在してて理解してるものでも絵にしてみると他人からはわけがわからないものになっちゃったりする。
いやこれは邪推というかなんの根拠も情報もない話なので例えとして間違ってる気もしますけど、とにかく『シン・』にはどこかTVシリーズの雰囲気を感じるんです。
でも、表層面、外側はこんなにも違う。
だから庵野総監督はとんでもない、途方もない人なんじゃないかとも思わされて。

ついでにね、もうひとつ回帰できる部分があるんです。
最後、インパクト起こして世界が変わって、そこにいるシンジくんじゃないですか。
人も人としてあり、海も青くなり。
そこから海を眺めて変遷して。
そうやって新しくなった世界で生きる人たちが、その世界について考えるとき。
なにを考えて、なにを伝えて、なにが紡がれるのか。
それらが大きな時間の流れとともに何になっていくのか。
これはもう「神話」に他なりません。

この伝承に描かれる少年は、神話「残酷な天使のテーゼ」として世界を、時間を巡るのです。

ここにも『シン・』が公開されたことの意味がある。
物語は始まって、終わることで初めて力を持つ。
終わっていないと、物語は神話にはなれないですから。

今後この曲を聴くときに自分は泣いてしまうかもしれない。
それくらい『シン・』が公開されて、見ることができて、本当に良かった。
ここまで回収してこんなにすっきり終われるんじゃん。『エヴァ』。


元は2020年公開の、開始からほぼ25年という長い時間の中で。
作ってた人たちも、ファンやってた人たちも。
本当にお疲れさまでした。
TVシリーズの最後に行われたことが、さらに真っ当に納得できる形で再度行われたこの『シン・』だからさ。
ここでも同じように返すよ。

『エヴァ』に関わる全てのその人とその中のシンジくんに「おめでとう」

その全てに「ありがとう」


そして『エヴァ』シリーズの完結に

「おめでとう」












自分の中のシンジくんに決着がついてすっきりしたはずなのだけど。
実はすっきりしていない自分自身の一部がある。

真希波が最初から最後までかわいすぎませんか?
合点!って言われたくありませんか?

え、シンジくんずるくありませんか?

え、え?
シンジくんと真希波くっつくの?
良いよ?それは良いよ?多分。
でもそれじゃあやらなきゃいけないことがあるよね?
くっつくならくっつくでちゃんと我々真希波派の人たちに真希波の日常パートでいちゃこらしてるの見せてくれないと不平等ってものじゃありませんか?
なんならゲンドウ時代のでも良いよ?
とにかく真希波の日常パートなかったんだからさ。

完璧に確実に完全無欠の終わりを迎えた『エヴァ』だけど繰り返し記号ついてるしちょっと待って、待って。
「育成計画」これでしょ。真希波と遊べるやつ。
真の希望の波でしょ。後生ですから。
お願いだからこれだけ出して終わってください。
すがり

すがり