河

キートンのハイ・サインの河のレビュー・感想・評価

キートンのハイ・サイン(1921年製作の映画)
4.6
序盤からだんだんとペースを上げるように面白くなっていって、最後に最高のシークエンスが用意されている。

「私たちのヒーローはどこでもない場所から来る。彼はどこにも行こうとしないが、誰かによってある場所へと蹴り出される。」という冒頭の中間字幕から、あたかも無から生まれたように、走り去る機関車からバスター・キートンが生まれ落ちる。バスター・キートンは誰かによって突然映画の中(ある場所)に連れ込まれた存在であることが示される。

バスター・キートンは最初は現実的なアクションや機転によって生まれ落ちたその状況に適応しようとする。その中で、バスター・キートンは現実では起こり得ないことが自分の周囲で起きていくことに気づく。自分のいるのが映画内であり、自分にそれを自由自在に変える能力があることを自覚していくかのように、バスター・キートンは段々とトリックショットなど、映画的な現実を変容させる力を自ら駆使するようになる。それは、バスター・キートンが主役であると同時にこの作品の製作者だから可能となる。

悪の組織とその組織に狙われる老人とその娘という状況に対して、最初はそのアクションや機転によって解決しようとするが上手くいかない。しかし、そこに現実を映画的に変容させる能力が加わることで、状況がどんどんと荒唐無稽なものへと加速していき、最終的に解決する。バスター・キートンは現実を映画として映し、その中に入り込み、映された現実を自由自在に映画へと変える存在となっている。『ONE WEEK』でもメタ的なショットがあったが、これはその設定によってメタ的な構造が前景化した映画になっているように思う。

エルンスト・ルビッチの同時期の映画は、多幸感のあるショットの連鎖によって最初からわかっていたエンディングへと連れていかれる機構のようなもので、ジェットコースター的な気持ちよさを持っているように感じる。この監督の映画も同じようなものかもしれない。次に起こることはわからないが、最終的に落ち着く場所はわかりきっていて、だからこそ安心してその気持ち良さに身を任せることができるような感覚。
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