あでゆ

バケモノの子のあでゆのレビュー・感想・評価

バケモノの子(2015年製作の映画)
2.6
◆Story
人間界「渋谷」とバケモノ界「渋天街」は、交わることのない二つの世界。ある日、渋谷にいた少年が渋天街のバケモノ・熊徹に出会う。少年は強くなるために渋天街で熊徹の弟子となり、熊徹は少年を九太と命名。ある日、成長して渋谷へ戻った九太は、高校生の楓から新しい世界や価値観を吸収し、生きるべき世界を模索するように。そんな中、両世界を巻き込む事件が勃発する。

◆Infomation
『サマーウォーズ』などの細田守が監督を務め、人間界とバケモノ界が存在するパラレルワールドを舞台に孤独な少年とバケモノの交流を描くアニメーション。バケモノと少年の声を役所広司と宮崎あおいが担当するほか、染谷将太や広瀬すずら人気俳優が声優として名を連ねる。

◆Review
本作を鑑賞することで、細田守は求められている作品の性質と個人的な資質が全く噛み合っていないことが明らかになった。特にこれまで不穏に感じていた細田守作品にあった違和感が凝縮し、本作で瓦解してしまっている。
おそらく予算や大量にスポンサーがついた結果、監督が作品自体をコントロールできなくなってしまったようにも思う。やたら豪華な俳優陣で構成された過剰な配役からも、その事態を想像させる。

まず人間世界が不要であることを述べておきたい。
ひとつには明らかに無駄なキャラクターが多い。特に人間世界パートでの広瀬すず演じる楓は人間世界で九太の世話をする役割以上の価値がなく、存在意義や人格が全く表れていない。ラストの打ち上げに急に顔出していい感じになろうとする無粋さも相まって、碌でもないキャラクターという印象が最後まで抜けなかった。
人間世界の父親の話も、本来であれば『Guardians of the Galaxy Vol.2』のように育ての親生みの親問題に帰着することでそれなりに面白くなる存在ではあったのだとは思うが、父親の葛藤も息子の葛藤も全く描かれないため、完全に不毛である。
おそらく、使うべき俳優陣があらかじめ配給側で決められているため、大泉洋やリリー・フランキーなどの物語上必要のないキャラクターを多数配置せざるを得ないのではないだろうか。

このように物語後半で中心となる人間世界はそもそも不要なのだが、おそらく作家個人が架空の世界よりも現実世界を描きたいのだろう。ラストスパートでは、わざわざ人間世界で戦う必要性もないのに人間世界に移動するのがその証左である。
よくよく考えれば、細田守の描く仮想世界はかなり空虚な白背景の中に人間の世界にもあるオブジェクトが際立っているものであるし、加えて作家性が最も顕になっている作品は仮想世界を取り出さない『おおかみこどもの雨と雪』である。
余談だが、本作で最も良いシーンも人間世界のカメラ外で不良をボコボコにするシーンである。これは『時をかける少女』のラストシーンのセルフパロディにもなっている。

物語もはっきり言って意味不明だ。無駄な要素がとにかく多い上、最終的に敵のイメージとして現れる「闇」がなんなのか一切何もわからない。
人間は普通に生きていれば人間として生きられているのに、バケモノ世界に行ったことをきっかけに「闇」が植え付けられるのだろうか?
バケモノ世界でバケモノがバケモノの理屈で「闇」に落ちるというストーリーならまだわかるのだが、「バケモノ」という嘘と人間側が陥る「闇」という二つの嘘が存在して、それらが因果関係にないため、話のリアリティラインをどこに保てばいいのかわからなくなっている。

また、宮野真守演じる一郎彦の存在も理解に苦しむ。見た瞬間人間と観客は認識できるはずなのに、後半で彼が実話人間でしたというオチを提示されたところで、どういう感情をもって視聴していれば良いのかわからないのだ。

また、これまでの作品で大事にされていたはずのプラスのイメージを持っていた鯨が、本作では意味不明な『白鯨』の引用でもって、マイナスのイメージとして扱われている。
ここから推測するに、細田守はこの映画を自分に課せられた闇、あるいは抑圧と考えているのではないか......。

テーマ自体は『おおかみこどもの雨と雪』と対になる父性をテーマとしていたり、やはり時間経過の演出やカメラ技法などは流石なだけに、うまく調理すれば良い作品になるだろうと思いつつ、90点の素材でマイナス50点の料理を作ってしまったような印象だ。
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