まりぃくりすてぃ

サンドラの週末のまりぃくりすてぃのレビュー・感想・評価

サンドラの週末(2014年製作の映画)
3.8
〈労働とは〉〈雇用とは〉〈人間社会とは〉〈生命とは〉といった哲学の掘り下げが一切なく、主人公が目の前の〈現実〉にどう〈対応〉するかだけを描いてる。
ジャーナリスティックに?
いやいや、じつは高くない客観性と中立性。

職場の一人ひとりにも、主任にも、社長にも、もっと言い分があるはず。主人公にも過去があるはず。(ないはずはない。みんな人間だもの。)
社長のやったことが適法か違法かは、異国のことだから私はわからない。
でも、、
主人公が鬱病で休職していたの? ならば、彼女の休職に至るまでに、さまざまな苦しみが同僚や上司の側に必ずある。ほぼ必ず。
私は、身近なその種類の病気の人が直接原因となって、自分の仕事に甚大な影響を受けたことがある。こんなこと言いたくないが、その人には、完治するか別部署へ移るか辞めてもらいたいというのが私の本音だった。仲間たちもそう思っていた。ぎりぎりのところで回していた仕事が回らなくなって、にっちもさっちも行かなくなったのだ。(人間だもの。)
それと、もしも鬱病上がりだとしたら、夫による尻の叩き方は危険だ。「頑張れ」と最も言っちゃいけない相手に。。。

精神疾患のことはまあ措くとして、この映画は、「革命が必要な時に、スポーツをしてる」かのようなカッコよさと若干の余裕があった。
それはべつだん悪いことではない。(映画だもの。)
しかし、私はレーニンがかつてぶち上げた「能力に応じて働き、必要に応じて受ける😊☺️😊☺️😊」という理想社会話を少し知っている。(庶民だもの。)
スポーティーな本作の、まるで何だか個人技による突破 (眼前の事態に対処・対処・対処していく諦めない頑張り屋さんの、ドリブル&ランみたいな) の思いは、革命思想とはかなり違う。
主演者が熱演により提示したものは、あくまでも競技者性。スポーツマンシップ。“ルール内で全力を尽くし、その競技そのものや文化文明への疑問は言い出さない”。〈資本主義〉〈階級差〉とかには何の批判も当てない。そしてひたすらに「ボーナスを取るの? 仲間である私を取るの?」への命題単純化。同僚たちも、その一点にのみ概ね誠実に返答する。
(ついでにいえば、私たち日本人は、システマティックを好む。それがダメなら今度は、情緒的になる。不当ぎみの解雇をされそうになった時に「労基署に相談に行く」「社長にとにかく懇願」「恨む。自殺や暴力を仄めかす」「別の弱者に八つ当たりする」「ひょんなことから慰めを見出して、嫌なことをいっぺん忘れてしまう」のが普通。個で動き個の力で扉を開けていこうとする自助第一のヨーロッパ人の姿には、何というか、驚きがあるね。)

中立性とか書いたけども、監督兄弟が主人公に強く肩入れしてるのは明白。
なら、他人事のような『サンドラの週末』なんて邦題はないんじゃないの?
本当に世の中を少しでも本気で変えたい・善くしたいと願ってる人だったら、『勝ちにいく週末』とか『サンドラの勝ちにいく週末』という邦題をつけただろう。
それでこそ主人公の熱意に報いられる。
かつてゲーテが言った。「権力にはやすやすと従え。だが、もしも抗おうとするならば、富も屋敷も命も懸けろ」……自分が権力側につくのか、命を懸ける側にいるのか、もっと真剣にすべての地球人が考えなくっちゃね。(猿じゃないもの。)