この映画、公開当時に観てピンとこなかったのだが、ずっと気になっていたので再鑑賞した。当時、ピンとこなかった原因が分かった。
マイノリティを描くときに、二つの道がある。
・問題を描くのか
・人を描くのか
当然両方描くのが本来なのだけど、
力点をどちらに置くのか決めないと、映画は散らかってしまう。
この映画は圧倒的に前者だ。
LGBTに対する社会の冷遇
ネグレクト
児相問題(日本で言うところの)
世の不条理オンパレードだ。
「障害者」という言葉は「障害を持った人」ではなく「社会の不整備によって不便を抱えた人」という意味だと思う。
要するに「世の中に課題がある」というフラグが「障害」という言葉だ。
近視はメガネとレーシック技術がなければ立派な障害者である。
本作のような映画のおかげで、社会の俯瞰しづらい現実を僕たちが確認できる。
しかし。
この手の社会問題を取り扱う映画でありがちなのが、人物描写の雑さだ。ピュアなマイノリティと性悪なマジョリティ。対照的な両者を際立たせることで、問題を強調する。
ぼくはこのやり方があまり好きではない。
なぜなら、この世は善か悪かの二局構造ではないからだ。人は誰でも善であり悪だ。
弱い生き物なのでその間を行ったり来たりする。
それでも愛らしいのが人間なのであって、善だから愛されるのではない。
ここを外してしまうと、
映画はハリボテのエンターテインメントになる。
ぼくはこの映画に出てくる3人を見て、「ピュア」以外何も感じなかった。
「チョコレートドーナツが好き、ダンスがうまい、人形が好き」という取ってつけたキャラ設定をしたところで、人間性には迫れない。
少し強い表現になってしまったが、
好みの問題ということで許してもらえると嬉しい。
【ここから落書き】
マイノリティが社会において権利を勝ち取っていた歴史がある。
難しいのは「正論を言うこと」は社会を変える力になりにくいということ。
社会を変えるのは2つの力だと思う。
・影響力を持つこと
・社会的メリットを訴求すること
社会は強者が動かしている。
これだけ、少子高齢化が叫ばれていても、子育て世帯に優しい法改正が行われにくいのは、彼らが票田ではないからだ。
要するに「子育て世帯に優しい世の中にならないと、少子化は防げない」という正論に力はないということ。
LGBTが少しづつ市民権を得つつあるのは(課題は多いけど)、LとGとBとTがスペクトラム化したからだ。性自認という考え方すらなかった社会はTが繋がることで「認知」を得た。
影響力をもつとはそういうことだ。
映画は人の心を刺すことができる。
「マイノリティ」はハードではなく、人であるということを訴えることができる。
ぼくは『タンジェリン』を観て、彼女たちと友達になりたいと思ったし、『フロリダプロジェクト』のあの親子がどんなに悪事を働こうとも、彼女達が大好きだ。
ダイバーシティとはより豊かな社会であり、誰にとっても目指すべきものなのだ。
だって、シンディ・アレクサンドラと友達になりやすい世界の方が圧倒的に楽しい。
ほらメリットあるよね。