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トム・アット・ザ・ファームのkuuのレビュー・感想・評価

3.8
『トム・アット・ザ・ファーム』
映倫区分PG12.
原題Tom a la ferme.
製作年2013年。上映時間100分。

カナダの若き才能グザビエ・ドランが、カナダ東部ケベック州の雄大な田園地帯を背景に、閉鎖的な家族と地域を舞台に描いた心理カナダ・フランス合作サスペンス。
カナダの人気劇作家ミシェル・マルク・ブシャールが2011年に発表した同名戯曲の映画化。

恋人の男性ギョームが亡くなり悲しみに暮れるトムは、葬儀に出席するためギョームの故郷を訪れる。
しかし、ギョームの母ちゃんアガットはトムの存在を知らず、息子の恋人はサラという女性だと思っている。
トムの存在を唯一知るギョームの兄フランシスは、トムに恋人であることを隠すよう強要。
当初は反発を覚えたトムだったが、次第にフランシスの中に亡きギョームの姿を重ねるようになり。。。

今作品は、サイコスリラーであり、とても暗い欲望の探求でもあるし、ホモフォビアに対する男性の性差別的な批判の対象になりやすいという、珍しい映画である。
ちなみにホモフォビアとは(Homophobia)、同性愛、または同性愛者に対する差別・偏見・拒絶・恐怖感・嫌悪感、または宗教的教義などに基づいた否定的な価値観を持つこと。 日本語では同性愛嫌悪や同性愛恐怖とも訳されます。
フランシス(ピエール=イヴ・カルディナル)という名の男が、主人公のトム(グザヴィエ・ドラン)を暴行する(同性愛者だとして)という、搾取的で、露骨な残酷行為や虐待のシーンが延々と続く。
物語は、亡くなったボーイフレンドの兄が、社会的にも性的にも抑圧された無垢な青年トムをサディスティックかつ残酷に虐待する様子を極端に描写することから発展してます。
暴力的な虐待を受けた人の身体的、精神的ダメージと屈辱を、最も説得力のある絵の一つとして提示してた。
小生は赤ずきんちゃんの話を思い出した。
荒野に飛び出した少女は、(軽率に信用した)狼に捕まって食べられちまうが、通りすがりの森番の男にようやく救われる。
オオカミを擬人化し虐待を食べると読み替え、森番を無視すれば、今作品が出来上る。
グザヴィエ・ドランは主人公の勝利よりも、その劣化を提示することに喜びを感じているように感じたかな。
お話は、主人公が亡くなった恋人の家族のカントリーハウスで不安の中に突入。
心地よくないペースで始まる。
そして、暴行が始まり、激化し、1時間半後、つまり映画の終盤に終わる。ストーリーの倒錯的な単純さとリストなミザンセーヌ(おおまかに作品の筋、登場人物を作り出すこと)によって、観客は重要な出来事を追いかけ、加害者ではなく被害者とともに生きようとするようになる。
トムが長い間、物思いにふけった後、自分が生きてきた恐怖から逃れようとする考えに至り、ようやく役割が入れ替わる。
この時点で明らかにトムの人生の邪悪な現実から、ほとんど不可能な逃避へと移行し、トムはあらゆる感情の強さを見出して反撃する。
それどころか、教育を受け、裕福で、感情的に強いトムは、まったく貧しく、無学で、失業した負け犬として描かれた加害者に対抗している。
驚くんは、トムの加害者がまったく変人でないこと。
観てる側は、フランシスは自分の行為から何の喜びも得てはいないと容易に結論づけれる。
フランシスは自分の行為に喜びを感じておらず、むしろ男の競争、つまり男のヒエラルキーを作り上げ、維持することに主眼を置いてる。
彼の残酷さは、彼の教養のためにあるように思える。
今作品は、男性の権威に挑戦し、最後にはそれを不条理で無意味なものにしてまう。
ほんで、同性愛の男性に権力と発言力がないことを検証している。
また、露骨なホモフォビアと覗き見の感覚が支配的だった。
一方じゃ、ドランは主人公を弱く、もろく、虐待され、同時に抑圧者に病的に魅了される存在として提示してた。
また、一方で、主人公が支配的で自信に満ち、利己的でスリルを求める男へと成長する、強い同性愛の男性キャラを描くことに成功してました。
暴力と権力の描写は、物語の中心であり、被害者、そのアイデンティティや人種、社会経済的地位、文化などを検証している。
今作品は、ノンケのサディスティックな野郎とホモセクシャルの男子を戦わせ、男の性差別をあからさまに表現してた。
過剰な同性愛嫌悪にさらされた男子が、最後に、かつて自分に課された暴力から目を背け、街に逃げ帰るという内容で、加害者は孤独と心の傷を負ったままである。
深く考えさせられる善き映画でした。
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