赤苑

怒りを込めて振り返れの赤苑のレビュー・感想・評価

怒りを込めて振り返れ(1959年製作の映画)
3.9
『怒りを込めて振り返れ』における怒りの性質については、いくつか特徴的な点が挙げられるものの、いずれも行き場がないものであるという点で共通している。まずは労働者階級による中産階級に対する「怒り」である。労働者階級出身の青年ジミーは、中産階級出身のアリソンと結婚している。ジミーはアリソンに対する劣等感からかしばしば高圧的な態度を取り、アリソンと同様に中流階級出身のヘレナに対しても初めは強い拒否感を示す。作品の後半で妻が里帰りした後も、家の中ではアリソンにするのと同じようにヘレナに対して強情な振る舞いを見せるジミーは、戦後も残る根強い階級社会と、それによって大学を卒業しながらも露店で行商をしている自分の生活に対する不満を身近な人にぶつけ、なんとかギリギリのところで自尊心を保っているようにも見える。しかしアリソンやヘレナが中産階級出身であるという事実は変わることはなく、よってジミーの劣等感は消えることはない。つまり彼が周りにぶつけている苛立ちは終わりが見えないと言う点でもはや行き場をなくしているのだ。

「怒り」の要因を階級によるもの以外に見出すとすれば、それは当時の社会動向にある。イギリスは1956 年のスエズ動乱、そしてハンガリー事件といった国際紛争によって国際的威信を失墜している。戦後、福祉国家になったように見えても経済は不況、戦時中のように生命を懸けて絶対に守るべきものといった大義名分もなく、自らの存在意義も見出せない。かつてのように繫栄する大英帝国像を失った若者たちには、現存の秩序に対する怒りと、伝統に対する僅かなノスタルジックな感情の両方が入り混じるギャップがある。それがよく表れているのが、ジミーを非難する父に対して、アリソンがジミーを擁護する場面だ。アリソンは「時代が違う」と指摘し、ジェネレーション・ギャップの問題を浮上させる。ジミーが戦後世代の若者である限りこのギャップは埋まることがないという点で、彼の怒りにはやはり行き場がないのだ。

この二つの要因が根幹にあるジミーの怒りは、露天に参入してきたインド人への態度によく表れている。新参者として見くだしたような嫌味な態度を取るが、鼻持ちならない監視官が来ると言うことは聞くしかない。差別されたジミーの怒りは、身近な他人を差別するという終わりのない差別構造の中を循環するため、また行き場をなくす。その怒りは、粗雑な話し方をし、新聞や置き手紙、煙草は投げ捨て、身内の話にはあまり耳を貸さず、教会の音には喚き散らし、家具を蹴りつけ、舞台の稽古に乱入して場をめちゃくちゃにし、時には暴力にも走るといった振る舞いの激しさに表出しているが、その苛立ちの内面には深い閉塞感がある。アリソンと激しい喧嘩をすると少しして謝り、彼女が里帰りすると本気で落ち込み、母が死ぬと放心状態になり、寂しさからヘレナを求めるジミーの姿は人間臭く、誰かに叩きつけずにはいられない彼の孤独の深さを際立たせる。劇中の救いのない言葉の応酬と、彼が辿る円環構造からは時代の無気力が滲み出ており、その諦めにも似た反発は『トレインスポッティング』など現代のイギリス映画からも共通のものを汲み取ることができる。(しかし後の90年代、同じく労働者階級出身のロックバンド・Oasisがこのタイトルに反して『Don't look back in anger』と歌っている点は興味深い)
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