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ウォーム・ボディーズのkuuのレビュー・感想・評価

ウォーム・ボディーズ(2013年製作の映画)
3.8
『ウォーム・ボディーズ』
アイザック・マリオンの小説『ウォーム・ボディーズ ゾンビRの物語』原作既読てのの実写化で、異色の恋愛・ゾンビ・コメディ映画かな。
人類とゾンビが対峙しよるチョイ未来が舞台。
人間の女性に心奪われちまったゾンビの兄ちゃんの淡い恋の行方てのを描いていく。ってな感じです。
主人公の恋心を抱くゾンビを、小生は観てまへんが、『ジャックと天空の巨人』のニコラス・ホルトって役者が好演しとります。
メガホンを取るのはジョナサン・レヴィン。
奇想天外な設定とコミカルな展開もさることながら、所々にちりばめられてるゴア表現(血しぶきが飛び散る様な残虐なシーンのこと)も見応えありますよ。
ゾンビと人類が戦いを繰り広げる未来。
ゾンビの兄ちゃんR(ニコラス・ホルト)は、ゾンビ仲間と共にメシ(ゾンビの食糧である生きた人間)を探しに街へと繰り出す。
人間の一団と激闘する中、彼は自分にショットガンを向けた美少女ジュリー(テリーサ・パーマー)に、嗚呼!心を奪われちまう。
ほかのゾンビに襲われる彼女を救出し、自分たちの居住区へと連れ帰るR。
彼の優しさ(そりゃ相手はゾンビやしなぁ)を頑ななまでにつっぱぬけてたジュリーやった。
せやけど、少しずつそのピュアさと優しさに気付き出す。
ついに思いを寄せ合うようになった二人は、ゾンビと人類の壁を打ち壊そうとするんやけど。。。

『私が死ぬ』てのはどういうことやろかと?
己の体が活動を停止すること!かな。
せやけど『私の体』も脳が創り出しとる映像なんやから、たしかな表現とは云えへん(脳も脳が創り出しているという明らかな矛盾はこの際置いておくけど)。
なら、こう云やぁいい。
『私の脳が活動をやめる』こと。
詰まるところ、すべてを創り出す脳が活動を停止する。
何が起こるんやろ?
もう映像も、感覚も、感情も、時間も創り出せへん。
何も創り出せへんのなら、
『本当の私』は、脳が死ぬと何も創れへん。
それはわかる。
自分という意識がなくなる。
それもわかる。
せやけど、意識はなくなるかもしれんけど、自分の意識を創り出していた元の自分『本当の私』てのはどうなるんやろ?
『眠り』てのを考えてみると、眠りに落ちるとき、
『私』と云う意識は消滅する。
次に己を意識するんは、起きた瞬間。つまり、起きて空間と時間の中にふたたび戻った瞬間。
死ぬことと、眠りに落ちるのと、どう違うんやろ?
眠りで脳が通常の活動をやめたからと云って、己が無になったわけちゃう。見ている世界も『私』と云う意識も消えてしまったけど、自分が消えてしまったわけちゃう。
実は『眠り』と『死』の違いてのは『将来ふたたび自分(私)を取り戻すか否か』にかかってるんちゃうかな。
眠る瞬間と死の瞬間、その瞬間だけを比べたら、理論上何の違いはない。
同じように、脳が活動を停止したからと云って、『私』が消滅することを意味してない。
死ぬことと『本当の自分(私)』はまったく関係があらへん。
もし宇宙が100次元とか別の可能性の宇宙とか、そないな『本当の宇宙』があるんのやったら、3次元空間の自分が死んでも、他の空間で『私』がどうなっているかまったくわからへん。
ほんで、脳に情報を送っている元の世界=『本当の宇宙』は必ず存在しなくてはならへん。つまり、死は無を意味しない。空やな!色即是空。空即是色。
この話、実は脳を否定しても結論はまったく変わらへん。人間が見ている映像は脳が創り出したものではないとしても、人間の思考が創り出したものであることに間違いないからや。人間は3次元空間と時間の中でしか生を意識することができひん。死とは、その空間と時間がなくなることにすぎひん。
つまり、死はけっして無を意味しいひん。せやけど……いま俺たちが見ている世界で俺は俺を感じる。この『私』を『心』という。
いろいろな素材から世界や俺を生み出している『本当の私』。
この『私』を『魂』という。
『私』が生きている間、『私』はいろいろな世界を体験し、誰かと出会い、誰かと別れ、笑ったり泣いたりしながら生きていく。
心でいろいろなものを感じ・考えながら、『私』は『私』を生きる。
『私』が死んでしまったら、『私』はもう世界を創り出せへんから、『私』は出会ったものすべてと別れなければならへん。
『私』におもしろい話を聞かせてくれた友達や、とてもかわいらしい女の子や、とてつもない感動を与えてくれた食べ物たちと別れなければならへん。
『私』は『私』になっていったいどうなるかわからへんけれども、死が別れでありそれがとてつもなく悲しいということはよくわかる。死はけっして無を意味しない。
死が意味するのはただひとつ。
別れや。
だからいつの時代でも死がとてつもなく悲しいものであることになんら変わりはない。
昔から、人はこれに気づいていた。
せやから、人は死を悲しみ、あらゆる民族が遺体を埋葬してきた。4万年前、文字を持たなかったクロマニヨン人たちでさえ、遺体を埋葬していたし。
人々は遺体を埋葬すると同時に、故人に永久(とわ)の別れを告げ、この世ならぬ場所、人知の及ばぬ『本当の世界』、『あの世』に無事に旅立つことを祈って送り出す。
心との別れを悲しみ、魂の平穏を祈る。
例外なく、全民族が、全人類が、そうしてきたんや。心と魂――心と魂という発想があらゆる文化に存在するのは、偶然ではなく必然や。死は人知を超えているからどうやっても定義できひん。逆に言えば、死は定義できひんから、死について述べるあらゆる言説は間違いだということになる。
定義できないものを語ることなどできひんからや。死ぬと無になる。。。
死後、人は。。。こんなセンテンスはいっさい無意味や。
ただ、死は別れであり、悲しみなのだ。死には意味がない。意味はすべて「生」の中にある。「我々が存する限り死は現に存せず、死が現に存するときにはもはや我々は存しない。。。
そこで、死は生きている者にもすでに死んだ者にもかかわりがない」誰やったかがいってた!生きる意味がわからないって?何を勘違いしてるんやろ。『生』こそが意味や。
とてつもなく深い意味で、人と人が寄り添って意味を創造する活動、世界を構築する活動こそが『生』なんやなぁと。
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