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ペトラ・フォン・カントの苦い涙のryosukeのレビュー・感想・評価

3.7
 母からの電話を受けるペトラ・フォン・カント(マルギット・カルステンセン)が振り向く瞬間にカメラ目線のクローズアップとなり、「起きていたわ、本当よ」などと述べながら悪戯な笑みを浮かべる様を捉えると、彼女がオレンジジュースを受け取り、後ろに倒れ込みながらグラスを置こうとするしなやかな動きと、カメラの移動が艶かしく絡み合う。開幕早々、ファスビンダーは艶やかだなと思わせる。
 カメラワーク、構図、照明、美術の力で、室内劇でありながら画が単調にならないのは流石。とはいえ、基本は会話劇なので他のファスビンダー作品に比べると静的な印象で少々焦れるが、要所要所にファスビンダーの強烈さは見て取れる。
 ペトラは、シドニーとの会話において、女を所有し支配しようとする男を批判する。しかし、その一方でペトラは、使用人のマレーネを感情のない物体のように、常にあちらこちらへと動かそうとする。ここに、不公正なジェンダー規範を告発しつつも、階級的不正義を温存している強者としての側面が複雑に描き出される。
 さらに、ベッド上で寄り添い合うペトラとシドニーの様子を、不透明なガラス越しに、そのガラスに手をついて見つめるマレーネの様子等から、マレーネがペトラに対して恋愛感情を抱いているような空気も醸し出されており、強靭な二重の支配が敷かれているようにも思える。開幕と同時にブラインドを上げ、ペトラの目に強烈な光を当てるマレーネの挙動は、あるいは、そのような欺瞞から目を覚ますよう促す動きなのかもしれない。最初の結婚について語り出したペトラを、ピタッと動きを止めて見つめるマレーネと、レコードの音楽に合わせて、画面手前で意にも介さず踊っているカーリン。
 劇伴の少ない本作で終始鳴り響くタイプライターの音は、ペトラのブルジョワな暮らしが労働者に支えられていることを常に明らかにしているように思う。カーリン(ハンナ・シグラ)が、父親が労働者階級であることを話した瞬間に一瞬の間が生まれ、ペトラが「興味深いわ」と答えたのに対し、カーリンが「そう?」と応じるとき、サッとタイプライターの音が鳴り止むのが印象に残る。カーリンが両親を失った理由も、使用者が労働者をあっさりと切り捨て、さらに父親が経済力を軸に家族を支配し、社会に居場所を確保しなければならないという規範に囚われていたせいであることも明らかになり、事態は複雑を極める。そのような出自のカーリンが、ペトラに対してはたらく所業は、ある種の階級的復讐として読むこともできるように思える。
 若い女を経済力と社会的地位を元手に手懐けようとしたはずのペトラは、わずかな暗転のうちに、完全にカーリンの支配下に置かれている。この恐ろしいスピード感。悪びれる様子もなく黒人のエピソードを語るカーリンに激昂し、マレーネに怒りをぶつけるペトラ。ここでペトラが微かに人種差別的な意識を表出していることも見逃してはいけないのだろう。ぐるっと90度回り込むカメラが、ベッドの柵にもたれかかる哀れなペトラを捉えるのだが、彼女はもはや完全に囚人の様相を呈している(柵は檻に見える)。
 カーリンの命で酒を注ぎ、電話をかける「労働」をしている様が、常に使い倒されていたマレーネの姿を反射しており、ペトラが被支配者になったことを端的に示している。ペトラは、キスシーンを中断する電話がカーリンの夫からのものであるというシチュエーションにおいても、ボロボロになりながらも、夫に会いに行くカーリンのために飛行機を予約してやる立場まで落ちぶれている。これまで単なる背景であった絵画の人物の絡まり合いの中に、カーリンと彼女に跪き追い縋るペトラを溶け込ませることで、背景が前面に出てくる演出など凄いアイデアだ。
 カーリンを失った痛みの表現のどぎつさも、流石ファスビンダーの過剰さといったところで、ベッドがどけられた部屋の絨毯の上(雲の上のよう!)でひたすら電話を待ち続け、ガラスのコップを握りつぶすペトラは、ファスビンダー作品の主人公に相応しい形で強烈に病んでいく。このガラスが割れる音と共に、ペトラは近しい親族との関係すら破壊しようとしてしまう。壁にグラスを投げつけ、食器をヒールで踏み潰すペトラ。
 決め台詞が「淫売」であり、稼ぎ手ではなかった母を批判してしまうのも、ペトラが男女間の不公正を糾弾しつつも男性社会的な原理を内面化してしまっていることを露わにしている。だから彼女は破滅するのだろう。そして凝固するショット、家族が織りなす完全に均整のとれた構図が示す完全な崩壊。
 マレーネに「本当のパートナー」になるよう求めるペトラ。続く暗転の後のラストショットは幾つもの解釈の可能性に開かれている。カーリンの変転を一瞬の暗転でスキップしていたことからも、そもそもどれだけの時間が経ったのかすら不明瞭となっており、マレーネは歪んだ主従の関係を望んでいたからこそ即座に家を立ち去ることを決意したのか、あるいは、時間をかけながらも、例によってペトラが対等な関係性の構築に失敗したのかも分からない。
 しかしもっと怖いのは、長く被支配階級に立たされてきたマレーネが、自分に全面的に依存した瞬間にペトラを見捨てるという決断をしたという見方だろうか。いずれにせよ、これまでになく深い影に包まれたペトラの自室=牢獄を、あのキビキビとした動きで何度も横切りながら、スーツケースにそっけなく荷物を放り込んでいくマレーネを映し出したラストショットは強烈な代物だった。
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