Jeffrey

蜜の味のJeffreyのレビュー・感想・評価

蜜の味(1961年製作の映画)
4.0
「蜜の味」

〜最初に一言、18歳のシーラ・ディラニーが2週間で書き上げ、世界的な評判を取った傑作戯曲の映画化で、トニー・リチャードソンの名を一躍世界に知らしめた傑作であり、混沌とした物語がものすごいインパクトを与え、主演の名もなきリタ・トゥシンハムの大きな瞳が最後の最後まで印象かつ余韻を残す。まさに長編4作目にして彼の新たな傑作作品だろう。この映画を見ているとドキュメンタリーを見ているかのようだ〜

本作はトニー・リチャードソンが1961年に、18歳のシーラ・ディラニーが2週間で書き上げ、世界的な評価を取った傑作戯曲の映画化で、監督の名前を一躍世界に知らしめ、「ナック」でカンヌ国際映画祭主演女優賞受賞した名もなきリタ・トゥシンハムの実質的な処女作である。この度、DVDで久々に鑑賞したが素晴らしいの一言だ。本作は英国アカデミー賞最優秀作品賞や女優賞、脚本賞、最優秀新人賞、カンヌ国際映画祭では集団演技性、ナショナル・ボート・オブ・レビューベストテン入選と数多くの賞をかっさらっている。イギリスの新しい波(フリー・シネマ)の旗手トニー・リチャードソンの本作は様々な伝説に彩られていると言われているようだ。

まず、原作が戦後イギリス文壇を揺るがせた怒れる若者たちの紅一点、労働者階級出身のシーラ・ディラニーが18歳で書いた戯曲であることがそう言われている様で、ディラニーは、バスの点検、整備士の娘で、中学卒業後、職を転々とし、テレンス・ラディガルの芝居を見て、これぐらいであれば自分にも書けると思いで2週間で一気に本作を書き上げ、一躍センセーショナルな反響巻き起こした…と映画評論家の高崎俊夫氏が言っていたことを思い出す。この映画は、2000人を超えるヒロインのオーディションで、リバプール出身のハリネズミのような少女に目を留めるのだが、最初は愛嬌に欠けるし棘がありすぎて、私のイメージにそぐわないと不採用にしたらしいが、最終選考で突然、その少女を思い出し、ラッシュに回すと、雄弁極まりないリタの両眼のクローズ・アップがスクリーンに映し出されて創作の旅は終わったと彼の"長距離ランナーの遺言"と言う分厚い本書の中に書かれている。


当初この作品を何の情報も得ずに、紀伊国屋から発売されているDVDパッケージの表紙の彼女のクローズアップの表情を見てナイーブなハンサムな青年だなと思ったのだが、実際は少女だったと言うことに驚いた記憶がある。そんな彼女が、後の「みどりの瞳」「ナック」と合わせて名実ともに60年代イギリス映画のモダニズムを体現するイコンとなる稀代のファニー・フェイス、リタ・トゥシンハムが誕生した瞬間なんだなぁと、この映画の残酷で美しい寓話がなぜ評価されているのかが何となくわかったのは、今から3年前の2018年のことである。なんも変哲もないただのドラマだったと思って見終わった作品だが、2回目を鑑賞した本日、原作者の故郷の舞台であるマンチェスター近郊の工業都市ソルフォードがモノクロのコントラストで映り出されるとどこかしらSF要素に満ちているなと感じた。

と言うのも、ソルフォードの汚い裏町が映ったり、工場の煙突がやはりそういった近未来的な要素を含み、スラムや悪臭を放つ運河を前景化させているためか、ドキュメンタリータッチでリアルに捉えているような気もする。そこがまた良かったのだ。それに室内劇の世界もあって、遊園地、フリークスの見世物小屋、黒人、同性愛者、グロテスクなシークエンスなど結構ある。それから、この作品が子供の陽気な戯れ歌と共にかぶさってタイトルバックが現れるのも非常に印象的で、貧しい労働者階級の過酷な日常を迫真的なタッチで描いたフリー・シネマの中で、唯一本作は、どこか儚い童話的なみずみずしさをたたえているし、この映画には燦然と言う言葉が相応しいスタイルで、これ程に貧困労働者の過酷な日常を迫真的かつ苛立ちに満ちさせて描き切っていて、もがき苦しむ母娘の葛藤から一変して変わる物語の構造と人間的な愛情と主役の娘の美しい表情はたまらなく印象的で余韻を放つ…素晴らしさがある。さて、前置きはこの辺にして物語を説明していきたいと思う。


さて、物語の舞台はマンチェスター郊外の労働者の街ソルフォード。ある晴れた日。平和な女子校の体育の授業。苦手なネットボールをいやいやながらやらされている女生徒がヒロインのジョーだ。よく見ると体操着を着ていない。終業のベルが鳴ると一目散に更衣室へ。今夜踊りに行かない?とおしゃまな生徒に誘われても、着ていく服がないとそっけない。それにまた引っ越しかも?と。ジョーにとっては女子校も授業も日々の生活も全てが退屈しのぎ。彼女が家に帰ると、母親ヘレンは今まさに女家主と家賃の滞納で一悶着。それに相変わらず男を部屋に引き入れていたらしい。家主に男はご法度と最後通告を受けるヘレン。家賃も踏み倒し、逃げるようにしてアパートを脱出。バスで繁華な市内を抜け、降りた先は路地の奥にあるくすんだアパート。裸電球が天井からぶらぶら下がり、ベッドが1つ、奥に簡易なガス器具があるだけの陰湿な部屋。

しかしヘレンはまるっきり意に介さない。早速小金持ちの色男ピーターと夜な夜な酒場に出かけては、その美声と踊りで日々を過ごす。ピーターとは親子ほどの歳が離れていると言いながら、一緒に暮らそうと言い寄られるとまんざらでもない。ヘレンは日々楽しければそれでいいのだ。帰る部屋等は真っ暗闇でも関係ない。ジョーもまた早々と学校をやめ自立して自分の部屋を持ちたいと思っている。それにアパートにピーターが来ているときは部屋へ帰れない。ある日の学校帰り、街のはずれの運河沿いで時間をつぶしていると停泊中の船からいつか見かけた黒人の青年が降りてくる。アパートを追い出された日、バスから降りる際に手を貸してくれた水夫のジミーだ。彼もジョーを覚えていて船の中の厨房を案内してくれる。自分を大事にしてくれる異性と出会い、彼女はふと心を許す。そして初キッス。

アパートに戻るとヘレンが訝ってジョーに問いただす。船乗りと会っていたと臆面もなく話すジョー。ヘレンもピーターと再婚すると言う。互いに縛りあうことのない母娘なのだ。ジョーはその後もしばしばジミーとデートを重ねる。学校の前で彼女を待って運河沿いを散歩する。戯れ歩く途中で、そっとジミーから指輪を贈られる。彼の彼女への素朴な想い出だ。まだ学校にはしていけないから、ヘアリボンに指輪を通しペンダントにして身に付ける彼女。ある日、ヘレンはピーターや女友達とブラック・プールへ遊びに出かけた。ジョーも同行したが、派手好きで教養もないピーターと一緒にいるのが耐えられない。ささいなことからピーターと口論になり、ピーターの機嫌を損ねまいとするヘレンは帰りのバス代をジョーに握らせるとそのまま帰してしまう。

母に失望した彼女。帰路、夜行バスから降りて家路をたどっていると闇の中でジミーが待っていた。航海に出る前の別れに来たのだ。ジミーの胸の内を知って、腕の中に飛び込むジョー。昼過ぎまで寝ていると、ヘレンが戻ってきてこれからピーターと新婚旅行に出かけると言う。大事な鳥籠と身の回りの品をバックに詰めると別れの挨拶もそこそこに出ていてしまう。呆気ないほどのお別れだ。そしてジミーも長い航海に出た。もう二度と会うことはないだろうと言う予感。いつも一人ぼっち。これまでだって大なり小なりこんなもの。早速靴屋の店員の仕事を始めて念願の部屋を週30シリングで借りる。長い間、人の住んだ気配がないようなただ広いだけの殺風景な部屋。でもジョーにとっては小さなお城だ。

そうしたある日、彼女は靴を買いに来たジェフリーと偶然、街のパレードで知り合い、行くあてもないと聞いて部屋へ泊めてやった。ジェフリーは女性のような感性を持つテキスタイルを勉強する学生だった。同じ部屋で生活するようになったら2人の間には、いつか奇妙な愛情が育っていた。家賃代わりなのかジェフリーは、かいがいしく料理を作り、掃除をし部屋を絵で飾る。みるみるうちに温もりのある2人だけの部屋に変わっていった。当初、彼女はジェフリーをからかい半分にお姉さんと呼んでたりしていた。ジョーがジミーの子を宿していると知った時も、ジェフリーは心から彼女をいたわり、身の回りの世話を焼いてくれた。ヘレンにも内緒でジョーの妊娠を知らせた。

その頃、ヘレンとピーターの間にはもう冷たい溝ができていた。ピーターに女ができたのだ。そしてまもなく、愛情に敗れたヘレンはジョーの部屋に戻ってきた。ヘレンはジェフリーをジョーの傍から引き離すと不潔なものを扱うように部屋から追い出してしまった。そんな折、娘がヘレンに打ち明ける。黒い赤ちゃんかも…と。アパートの外では近くに住む子供たちが人形を燃やし花火を打ち鳴らしている。11月5日のガイ・フォークス・デイだ。去っていったジェフリーを引き止める術もないジョー。彼女にとって母のいなかった短い夢のような幸福は、はかないものだった。冬の到来はすぐそこに。もう全てが遠い思い出になってしまったのだろうか…とがっつり説明するとこんな感じで、リチャードソンが映画作家として真に自己を確立した記念すべき作品である。


そういえば、80年代の英国ロックを代表するバンド"ザ・スミス"が、シングルやアルバムのジャケットにディラニーや、「蜜の味」の主演女優リタの写真を用しているのも、ディラニーが20年後においてなお労働者階級の表現者達からアイドル視されていたことの証左となるだろう。そのBBCのドキュメンタリーで彼女は、廃墟となった産業跡地は路上で群遊ぶ子供たちの映像に合わせて、故郷をソルフォードへの愛憎こもごもの複雑な心理を語っているし、このドキュメンタリーを撮ったのは当時BBCにいたケン・ラッセル。このドキュメンタリーについては、ネットを探せば見られるので気になった方はぜひとも見ていただきたい。というか、女性が描いた戯曲が日の目を見て、大ヒットすると言う事態はいくら新しい波が起こりつつあったとは言え、驚くべきことだそうで、戯曲の内容それ自体もさりながら、そこに若干18歳の作者のルックスも大いに力があったと言われている。


ところで、トゥシンハムはすごく特徴的な体型をしている。映画を見ればわかるが、とにかく大きな瞳が印象的だが、それと力強い足の太さもフレームの中では際立つ。ブリティッシュ・ニューウェーブの映画は、基本的には男性を主人公としているのが多く、その破壊的な活力を描くのがー種のスタンダードなのだけども、この作品は女性、しかも社会的に自立し得ていない少女がヒロインであることもあり、例外的になんだろうなと思う。少女が主人公だからと言うわけではないと思うが、この「蜜の味」はすごく混沌としている。なぜなら物語が凄まじいからだ。誰との間に生まれた子かもわからない主人公の少女が、母親にひどく罵詈雑言言われてようやく母親が出て行って一人暮らしし初めて黒人の男と付き合い、そこで黒人との間に子供を設けてしまい、さらにその後にホモセクシャルの青年と同居したり、しかしそこに母親が帰ってきて全てをぶち壊してしまう…と言う混沌としたいわゆるカオス物語なのである。そもそも主人公の少女は非常に反感を買うような設定なため、より一層孤独感がひしひしと感じられる。

そもそもこの作品は戯曲から映画化されたと言うのは先ほども申し上げたが、そうすると、戯曲なのにもかかわらず、主題の一貫性=疎外されている人物たち、この場合未成年ながら親に捨てられたヒロインや、黒人、ホモセクシャルの青年とか、社会から疎外された人物ばかりが出てくる。やはりそこには当然社会批判的な視点があるんだろうと指摘も多くあるみたいだ。しかしながら音楽のためだろうか、明るさと活気を与えている場面もあり、映像的には暗いシーンもあるが子供たちの戯れが唯一の救いになっている。そもそも、リチャードソンは、撮影にかつてフリー・シネマ時代に組んだウォルター・ラサリーを起用して、少ない機材で自然光を中心にしたライティング、機動的なロケ撮影を行っており、夕暮れの闇の中で、自然光によるその撮影が素晴らしいと評論家に絶賛されていたが、確かにこの映画を見てもそう言わざる得ない美しさがある。

長々とレビューしてきたが、ブリティッシュに限らず、ニューウェーブの映画の特異性は、それが主観的な表現であると言う点にあると思わせられる1本である。だから紛れもなくこの作品はリチャードソンにとっても、真の映画作家としての自己を確立した画期的なムービーなんだなと…長編映画としては4本目の本作。自身の映画制作会社ウッド・フォールを立ち上げ、その第一回作品として怒れれる若者達と言う呼称の元となった戯曲(リチャードソンが初演)を映画化した「怒りをこめて振り返れ」で、第二回作品として、これもリチャードソン自身が舞台で演出していた「寄席芸人」もぜひとも見て欲しいものだ。

最後に余談話をする、主人公を演じたリタは、オーディションは面接、そしてセリフを渡され、即興演技をさせカメラテストをすると言う徹底ぶりで、テストを受けた彼女は最初、演技はうまいが愛嬌が足りないと言うことで採用されなかったらしく、翌日のテストフィルムに映し出された彼女の人を惹きつける印象的な瞳の美しさを見た監督のリチャードソンは2000名の応募者の中から彼女を躊躇なく選んだそうだ。彼女自身、パントマイムやレパートリー劇場で端役で出演していた位だったそうだ。でもすごいなと思うのが、この作品1つでカンヌ映画祭を始めゴールデングローブ賞や米国アカデミー賞新人賞など総なめしてしまい時の人となってしまうのだから。60年代半ばは、彼女はそれまで階級意識の強いイギリスでの労働者階級をテーマにした映画、演劇作品のシンボル的存在になっていったんだろうな。
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