YasujiOshiba

最初の人間のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

最初の人間(2011年製作の映画)
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日本版DVD。23-107。アメリオによるカミュ。ようやくキャッチアップ。岩波で上映していたときは縁がなかった。やはり縁は大事。昨日見た『蟻の王』で、アメリオのダイレクトな政治的メッセージにあてられたばかり。この映画も強烈だ。

曰く、どうしてフランスとアラブは共存できないのか。できるはずではないか。まだ少し殺し合いが続くだろうけれど、そのあとはアラブ人もフラン人もアルジェリアという地で共存できるに違いない。アルジェを故郷とするものがパリに行かないのは、パリにはアラブ人がいないからだ。そんな母のセリフなんて、ほとんど涙が出てくるほど気高い。

今のパリとその近郊の状況を考えてみれば、その気高さは、過去へのノスタルジーではなく、あるべき未来へのノスタルジーとして、悲嘆に沈む心の底から拾い上げるべきものではないのだろうか。アメリオの映像が丁寧に拾い上げるものは、そんな気高さであり、この気高さは政治的なものにほかならない。

映画が政治的であることを嫌うむきがあるのはわからないでもない。なぜなら、中途半端に政治的である映画はもちろん、政治的ではない映画のフリをして政治的な党派に与するようなプロパガンダは「政治の映画化」とでも呼べば良いのだろうか。ようするに映画を撮るふりして政治をしているだけ。プロパガンダ映画は、似非芸術であり似非映画。それは政治であって映画ではない。

けれどもアメリオの映画はどこまでも映画であり、映画だからこそ政治的なのだ。イタリア映画の伝統に照らせば、映画は常に政治的だった。政治に関わりを持たずに、映画のリアリズムが成立するはずがない。映画の語り手が政治的な立場を明確にすることなく、どんなリアルをとらえられるというのか。

そういう立場は、ネオレアリズモという形で教条化されることもあったけれど、それでも映画であることには変わりがなかった。アメリオの映画は、同じように映画であり続けることで政治的になっている。

映画であり続けるというのは、そこにリアルがあるということだが、『最初の人間』ほどアメリオにとってリアルなカミュの作品はない。それが自伝であるというよりも、その自伝の内容がほとんどアメリオ自身の人生とかさなるからだ。

アメリオも父を知らずに育った(知ったのは大きくなってからだという)。祖母と母というふたりの女性に育てらた。家は貧しく、耳の不自由の叔父と一緒に仕事をしながら暮らしを助けていたという。文字を読めるものはいなかったが、彼は学校の教師に助けられて進学できたのだという。まるでカミュの自伝のままではないか。

したがって、映画のなかの会話はカミュのものではなく、アメリオ自身の思い出から拾い集めてきた言葉によって編まれたものだという。それでも、カミュの娘が完成した映画をみたとき、父の作品を忠実に再現してくれたことを感謝し、映画にその名前をつけることを許してくれたのだという。映画化の前にではなく、映画が完成してから許可をもらったというのだ。

カミュの自伝とアメリオの自伝。そんな2重の意味で自伝的な映画は、どこまでも政治的な映画でもある。しかしその政治性はポンテコルヴォの『アルジェの戦い』(1966)とは異なる。アメリオのよればそれは、フランスから独立したアルジェリア新政府の求め応じて、独立戦争の記憶がまだまだ生々しい時期に、事件をドキュメンタリー風に描き出したところが強みだった、という。

しかしアメリオの映画は違う。アルジェリア戦争についての映画ではなく、より一般的な形で、エスニシティーの異なる人々の対立を描こうとするものだというのだ。エスニシティーの対立とはまさに、イタリアはもちろんヨーロッパ、そして世界的にも、きわめて現実的な問題だ。

そういう意味ではアメリオの映画は、ポンテコルヴォのものとは違う。現代社会におけるエスニシティーの問題を、歴史的に描き出しながら、その対立をカミュの思想によって仲介しようとする。革命はよし、しかしテロリズもはだめ。

アラブとフランスというふたつのエスニシティーのただなかの貧しい家庭に生まれ育ったカミュは、その対立の複雑さを十分に知りながら、だからこそ「革命はよし、テロはだめ」と言うしかなかった。

サルトルはそんな態度を中途半端でブルジョワ的だと批判するのだが、カミュはアルジェの複雑な状況を遠くから見ているだけ、皮膚感覚ではわかっていない。だからカミュの立場を批判できた。しかし、すくなくともこの論争におしてミューズが寄り添うのはカミュなのだろう。

アメリオは言う。わたしが選んだはない。カミュの作品がわたしを選んだのだと。まさにミューズの働きではないか。そして、そのミューズとともに編み上げた『最初の人間』は、まさに今、この瞬間にぼくたちが目の当たりにしている政治的状況を浮き彫りにしながら、そこにぼくたちを「最初の人間」として招き入れる。

それは忘れられた世界。誰もが生まれた時は文字も知らず、伝統も知らず、文明も知らないまま、最初に人間として世界のなかに投げ込まれる。その忘れられた世界で、ぼくらは誰もが「最初の人間」として、文字を読み、伝統を作り、文明を立ち上げなければならない。

これがアメリオによるカミュのメッセージだとすれば、これほど同時代的で政治的なメッセージがあるだろうか。リアルであることは、つねに政治的なあり方だ。ここにあるのは、まさに「芸術の政治化」(@ベンヤミン)にほかならない。

参考:
https://movieplayer.it/articoli/gianni-amelio-il-primo-uomo-albert-camus-ed-io_9315/
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