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雨にぬれた舗道のhorahukiのレビュー・感想・評価

雨にぬれた舗道(1969年製作の映画)
4.4
これは傑作ホラー!そんでエロ過ぎませんかね。露骨なシーンはないのだけど序盤のフェチ的なエロさが特に凄かった。「年寄りになんて触れられたくない!若い男子が良い!」をモットーにする主人公が、若いイケメンを捕獲して、如何にしてSEXまで持ち込むかに全力投球するド変態映画!なにそれサイコーじゃん😂

冒頭、主人公の画面侵入からして既に嫌な予感は滲み出ており、ブルジョワどもが待つ家に至るまでの時間にもその心情が投影されている(しかも途中で対極概念とすれ違う)。その後も窓を挟んだ外と内の相剋的関係の現実・心的における支配関係の逆転と優劣とを徹底的に植え付ける。彼があの位置に座っていた事実には、位置取りに対する主人公の妄想的願望が心的現象として加わっており、空席に座り込む余地(原作では実際に隣に座る)のみならず、更には反復するごとにしなった木の枝が空席部分を覆い隠すような位置(距離)の変遷のようなものも見え、欲望が先鋭化していく気持ち悪さを増長しているように見える。

そこには老いと幼さの関係が根深く、窓越しの憧憬的な視線は性欲動だけでなく自身の失いつつある若さ故でもある。この辺り『反撥』のようで、それを踏まえると偶然だろうけれどジャガイモの言及が意味深なものとなる。そして、それを隔てる窓のバリケードのこちら側には「年寄り臭い」と自身でも嫌悪の言葉を発する「老い」しかなく、その透過性が可能性に転換される。それでもやはりそれは内と外を隔てる壁なのであって、自身の問題という被投され幽閉された閉鎖空間から観客が映画を見るかの如くに、自身の憧れを窓というスクリーンに映し出しているに過ぎない。つまりはそこに見た(と思った)可能性は不可能性でしかない。

それは主人公が死と向き合ったが故に見えてきた光景でもあり、ある種の本来性とも言えるわけで、それ以降頽落的な関係性をとことんまでに拒絶し始める(実際は真逆で、非本来的な逃避ととれる。少なくとも覚悟は感じない)。本作のアプローチとしては主人公に対する個別的な分析のように見えるけれど、イケメン含めた若者たちの描かれ方も考慮すると作品としては普遍へと敷衍させる意図の方が強そうに感じたし、ある種の映画を見る行為への分析、そこから派生した被投と企投の分析にも感じた。

会話・言葉による心情表現も面白く、シュルツで言う背面と前面の修飾関係というかサルトル的な無化というか、どちらにしても内と外の関係性が徹底されており、その境界を強烈に意識させている。しかもその表象を確定させない(情報として一元化させていない)ところに心的な階層が現れていて、更にはそれを踏まえた行動に果てしのない自己愛まで投影されているのがゾクゾクする。その自己愛はイケメンくんを子犬のごとく捉える傲慢さ(ゴミ捨て場に捨てられた新聞を身に纏い雨を凌ぐ姿なんてまさにそのもの)や、全く話そうとしないイケメンくんの態度を余白として自身の理想像をそこに投影していく様からも窺え、新聞紙を捨てた人や自身の地位を勘案すれば階級についての言及も兼ねていることがわかる。

イケメンくんの背景事情はほとんど描かれないものの、両者ともに類似存在であり、互いに抱える疎外状態から本質を探る過程において倒錯を起こし、両者ともその倒錯に疎外されていくという地獄。鏡像の多用は他2作『イメージズ』『三人の女』でも見られたけれど、本作では控えめながらこの点において混濁(倒錯)の意図を強めに用いているように思えたし、窓からのイケメンくん観察を踏まえて鏡像に2人を映し出す風呂場シーンへの変遷が内-外の境界を超越した2人の現前性をあくまでも虚像として捉えるあたりに面白みがあったように思った。ここから虚像と実像、そして関係性と疎外の発想を発展させたのが『三人の女』って感じがする。

そんでジャーロ好きとしては、同時期のレンツィ『狂った蜜蜂』との類似性がすごく気になった。原作があるし、中盤あたりからは真反対の方向に進むのだけど、同時期(『狂った蜜蜂』が68年、本作が69年)に妙齢美女によるイケメン監禁映画(しかも両作とも姉(妹/偽だけど)を連れ込む)がつくられるとは…。そして本作はジャーロだと言い張ればジャーロな気がする。
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