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13回の新月のある年にのレクのレビュー・感想・評価

13回の新月のある年に(1978年製作の映画)
3.8
性別適合手術をした主人公の最期の5日間。
元恋人を自死で失ったファスビンダー自身の吐露でもある"愛と破滅"は当時の時代背景もあり、男女というジェンダー論の上で語られる男にも女にもなれない苦悩がセンセーショナルに語られる。

生を擦り減らしエルヴィンはエルヴィラとなったわけだが、愛されたい人に愛されず自身のアイデンティティだけでなく人生をも見失う。
この世界に彼(彼女)の居場所はない。
残酷な物事から目を背けるなと言わんばかりの牛の屠殺シーンが根幹になっていることは明白ながら、首の皮一枚で辛うじて繋がっていたものがプツリと切れた瞬間には言葉すら出てこない。

ファスビンダーは性的マイノリティだけでなく様々な差別対象とされてきた人々を登場させるが、その人たちが受ける差別に対する凄惨さよりも(敢えてこの言葉を使うが)一般人がごく普通に当たり前に抱くような恋愛や人生における悩みをマイノリティの人々を通して描いている。
それはまるでドイツで1994年まで同性愛は罪とされてきた事実を見据えたようで、"愛されたい=誰かに認めてほしい"けれど認めてもらえない社会的規範から外れた孤独や疎外感による生きづらさへの悲哀。
現代で漸く認められつつあるLGBTQという価値観、マイノリティの人々の普遍性をその時代(1978年当時)で先進的に捉えていたのかと思うと、"今観る"価値はある。

エルヴィンはヘテロかトランスか。
この映画は今で言うトランスやバイという枠に簡単に当てはめていいのか。
というよりも、そういった性的マイノリティという枠に彼ら、彼女らを当てはめて組分けすること自体がナンセンスなのではないだろうか。
彼、彼女は彼或いは彼女の前にひとりの人間であるに他ならない。

また、自殺者は本当に生を放棄したのか。
たとえ生きたいと思っていても、今の人生に絶望した上での選択肢のひとつが死であったのではないだろうか。
結局のところ、部外者が何をどう話し考えたところで当事者の真意は分からない。
この映画自体も陽気でポップな音楽を使いながら節々には哀しみを帯びた言葉が流れる。
暗い物語であるが、明るく振る舞う姿を映し出す。
ひとつの枠に収まらない、収めようとしていない監督の良い意味での奔放さみたいなものが見えたように思う。
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