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ことの次第のkuuのレビュー・感想・評価

ことの次第(1981年製作の映画)
3.7
『ことの次第』
原題 Der Stand der Dinge
映倫区分 PG12
製作年 1982年。
日本初公開 1983年11月。上映時間 127分。
ニュー・ジャーマン・シネマの旗手として世界的注目を集めていたドイツのビム・ベンダース監督が、ハリウッドでの映画制作における自身の苦い経験を反映させながら撮り上げたドラマ。
後に『007 美しき獲物たち』などで個性派俳優として活躍するパトリック・ボーショーが映画監督フリッツを演じ、サミュエル・フラー、ロジャー・コーマンといった映画人も出演。
1982年・第39回ベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した。

ポルトガルの海岸で、SF映画『ザ・サヴァイバー』のリメイク作品を撮影している映画制作チーム。
しかし途中で資金が底をついた上にフィルムも足りなくなり、撮影を続けられなくなってしまう。
資金繰りのためアメリカへ向かったプロデューサーのゴードンとも連絡が取れなくなり、業を煮やした監督のフリッツは自らロサンゼルスへと足を運ぶが。。。

町の小劇場にて鑑賞。

1981年、ラウル・ルイスは『The Territory』って云う小さな映画を撮った。
風景に迷い込んだ人々が、物語という記号や地図という道しるべを持たずに、さまざまな階層や説明のドグマにバラバラになっていく様を描いた作品なんですが、この寓話は、我々と我々が作り上げる物語についてのものだった。
中心的なイメージは、頭の中の頭、心の中の心、つまり世界の始まりの場所としての一連の地図やった。
当時ヴェンダースは、コッポラのために撮ろうとしていたハメット映画の資金が集まるのを待っていた。
彼はどういうわけか、その映画からルイスのキャストとスタッフを借りて、ポルトガルでこの苛立ちを描いたこの映画を作ることにしたそうだ。
今作品はヴェンダースという人物の長所と短所の多くが同じであることがわかる。
同じように風景に迷い込んだ人々が、廃墟と化した海辺のリゾートにたどり着くと、彼らが映画の俳優であることに気づく。
撮影用のフィルムが足りなくなり、電話をかけてアメリカ人プロデューサーを探すのを待つしかない。
ヴェンダースはハメットのフラストレーションを表現している。
しかし、より重要なんは、時間を刻むストーリーや映像という記号がなければ、映画の中ではなく自分自身でいなければならなくなった彼らにとって、現実の人生が開けるということ。
このドイツ人監督はスピーチの中で、
『物語は物語の中にしかない、現実の人生は物語がなくなったところにある』と語っている。
ヴェンダースの明白な一面と云える。
何もすることがない我々は、彼らがいかに自分の選んだ物語に巻き込まれ、いかに意味を刷り込もうとしているかを見る。
丸太が窓を突き破り、監督はそれが悪の兆候であることを本から引用する。
もう一人は、地球儀に描かれた海が実際に窓の外に広がっていることに驚嘆する。
ある女性は、撮影されていなくてよかったと、写真を撮られながらカメラに向かって云う。
ヴェンダースは、イメージの根底にある、イメージを生み出す地面を探している。
そこで、ヴェンダース映画は純粋にその探求をテーマとした作品へと二度目の転換を遂げる。
我々は映像を生み出す場所に飛び、映像を究極的にコントロールするプロデューサーを探し回る。
この選択は大正解。
今、我々はただ街を、目を通して物事の行き来を見ることができる。
では、彼は物語の下にどんな現実の生活を見出すんやろうか?
誰かを探して街をさまよう、人生としての放浪。
巧みに撮影された街の雰囲気もあるが、それは麻痺している。
我々の外側にある何かに依存している限り、満足感の欠如は変わらない。
ヴェンダースにとっての空虚とは、仏教的な理解における活力、明晰さ、物事への受容性ではなく、現代的な単調さに違いない。
禅とは、平凡な人生を可能性の開かれた大地と見なすことでもある。
これは、我々がよく知っている倦怠感を完璧に捉えていると云えるかもしれない。
フランス人が参考文献の周りに築いた映画文化にうまく合致しているが、それは小さなことのように思える。
それにしても、人生を無目的だと云って何になるんやろうか?
カメラで目に見えない銃声を見つけようとするフィナーレは、死がどこから舞い降りてくるのか、そして最後の息づかいを映像として見るのは難しい。
しかし、この映画はいかにも詭弁的で、偉大な問題への到達点がいかにも映画学校的かな。
それでも、このことを考えずにいるよりは、このことに立ち向かって決断したほうがいい。
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