Jeffrey

サイレンスのJeffreyのレビュー・感想・評価

サイレンス(1998年製作の映画)
4.5
「サイレンス」#伊蘭映画特集

〜最初に一言、マフマルバフの美の覚醒を確実なものにした音のファンタジー、本作がいまだにVHSのまま埋もれているのが信じられないほどの美的センス抜群とサウンド・デザインが素晴らしい映画だ。エロス、苦悩、そして詩…タジキスタンを舞台にしたイラン映画の秀作である〜

こちらはYouTubeで解説しております。

https://youtu.be/PMXwc4jRtos

冒頭、盲目の美少年。伝統楽器の調律士として働く。ロシアに出稼ぎに行った父、母と2人暮らし、並外れた聴覚の持ち主、親方、音楽家、家賃未払い、演奏、鳥の声、蜂の羽音、鍋を叩くハンマー音、花の爪飾り、爆発音。今、様々なサウンド・デザインが観客の耳に奏でられる…本作は伊、仏、タジキスタン合作のモフセン・マフマルバフが監督、制作、脚本を務めた1998年ヴェネツィア映画祭上院議員金メダル賞を受賞したイラン映画で、この度イラン映画特集を再度YouTubeで行うためVHSを購入し、鑑賞したがこれがソフト化されてないのが謎である。「アフガン・アルファベット」もさっさと円盤化(メディア化すらされてない)して欲しい。この映画北朝鮮に拉致られた人間なんていないと言っていた当時の社民党党首の土井たか子(参議院議員)が絶賛していた作品としても知られているから嫌な感じがするも、映画自体は非常に切なさと美しさが胸に染み渡る感動作になっている。盲目の少年を主演に展開される映画ですごく純粋なのだが、盲目の少年でイラン映画で真っ先に思い浮かぶもう一つの作品でマジディ監督の「太陽は、ぼくの瞳」だろう。

まぁ、「太陽は、ぼくの瞳」はメロドラマで、本物の盲目の少年を使っていたが、あくまでもこの作品の盲目の人は芝居(健常者)だ。いきなり余談だが、マフマルバフがインタビューでこう言っていた。子供時代、非常に信心深い祖母から、音楽を聴いたら地獄に落ちると言い聞かされたらしく、祖母と一緒に通りを歩く時は、音楽が聞こえないように、指で耳を塞がれたと言っている(劇中の少年もそうしている)。祖母は自分のためだと言っていたそうで、マフマルバフが初めて触れた西洋音楽がベートーベンの交響曲第5番運命で、その響きの美しさと力強さに深い感動を覚え、以来、出だしの4和音が、頭の中を駆け巡るようになったと言っている。そして鍛冶屋からあるエピソードを聞いて、それが同じバスに乗り合わせた人が聴いていた音楽に惹きつけられてしまって、その音楽を聴くために、見知らぬ人物の後を追い、結局道に迷ってしまった話で、これがこの作品の筋書きになっている。要するに自分の体験と他人の体験を併せ持つ作品だ。



さて、物語は盲目の少年コルシッドは10歳。タジキスタンの小さな田舎町で、戦争によりロシアから戻ってこない父親を持つ母親と生活している。伝統楽器職人の下で暮らす美しい少女ナデレーは、毎日バス停までコルシッドを迎えに行く。調律師として働く彼を、工房まで送り届けるためだ。ナデレーが手を差し伸べるものの、彼は独り、音の世界に生きていた。乾いたパンや果物、水の流れ、町のざわめき、怒り、美しさ、そのすべての音を感じ取ることができる並外れた聴覚を持ち、それが彼の全てであった。通りや生活の中の音に導かれ、楽器の音色に魅せられ、良い音を求めて彷徨歩くうちに、道に迷って仕事に遅れ、親方に怒られることもしばしば…。ある日、大家から5日以内に家賃を払わなければ家を追い出すと脅され、母親は親方にお金を借りるようコルシッドに言う。

だがバスの中である音楽家に出会い彼の演奏に夢中で聞き入るコルシッドはまたも仕事に遅れ、しびれを切らした親方は彼をクビにしてしまう。遅れたのは良い音楽のせいなんだと主張し、親方に謝ってもらうためその音楽家を探し続けるが、家賃の支払い期限が過ぎとうとう家を追い出されてしまう。行き場をなくし、途方に暮れるコルシッド。そして彼はある1つの決断を下す…と簡単に説明するとこんな感じで、芸術家として尊敬されるマフマルバフ監督の特徴の1つである詩(大体イラン映画はその特徴自体があるが)が前面に出た作品で、確か公開当時釜山国際映画祭でもマフマルバフ特集が組まれるほどアジアで人気を博した監督の作品だった。まずこの作品を見て思うのが、なぜ少年の家庭が貧しいのかと言うことが明らかにされていないが、きっと父親がいないというのが大きな理由の1つであって、さらに貧困生活の割には少年が苦悩に満ちていないのが我々観客からすると唯一の救いであり、また音楽を追いかける姿を見ると安心してしまう。

この作品1度たりとも少年が目を開く事はなく、基本的にまぶたを閉じたままで本来の表情を見ることができないのが非常に残念である。しかしながら映像は明るく、少年の表情も明るい。そうした中ハイヤム詩のごとく今を大切に時間を大切にをベースに生きている彼の姿が凛々しい。この映画が重苦しくない理由の1つは音と色彩が綺麗と言うのがあるのかもしれない。逆に重苦しいリアリズムで描いていない為、わりかしすっきり見れる貧困映画でもある。なのでお涙頂戴のような作風ではなく、特に大感動するわけでもない。ただありのままの盲目の少年の暮らしを描いているのだ。そして何よりも画期的なのが一応イラン映画としてカテゴライズされているものの、撮影されたのがタジキスタン共和国と言うことなのが理由だと思うが、それぞれベールをかぶっていない若く美しい娘あるいは女性たちが民族衣装を着こなしていて顔を全面的に見せている分非常に愉快であった。豪華絢爛な登場人物で埋め尽くされていた。




いゃ〜、セタールやウード、サントゥール、ドンバクあたりの楽器の音色がたまらなく良い。確か三味線のルーツだったような気がするセタールわ。相変わらず詩の趣きがある作風を作る監督だなと感じた。あのバス通学の女の子たちが暗唱する詩としてオマル・ハイヤムが引用されているのもその一つだろうし、映画全体の構図や個々の映像などの中に詩を感じさせるのは、彼だけではなく基本的にイラン映画と言うのはそういうものが多い。盲目の少年を演じた子役は、まさかの女の子であると言う事実を映画を見終わった後に知った時の衝撃は凄まじかった。どうやらセンチメンタルな理由で、子供を探しに通に出た時に突然現れて監督に物乞いをしてひと目見て気に入ったと監督は言っていた。特にブロンドにこだわった理由は無いそうだ。彼女の演技は、上院議員長金メダル賞受賞したベネチア国際映画祭を始め各国で絶賛されたそうだ。あのざくろやパンを売っている美しいイラン女性たちをスライドで捉えるシーンはすごく圧倒的に色彩が綺麗で印象的である。少年が音を感じて食べ物を選ぶ場面なのだが、その少年がすごく美青年でびっくりする。てかこの作品可愛い男の子と可愛い女の子しか出てこないんだけどマフマルバフ厳選したのかな。

主人公の盲目の男の子はすごい美青年だし、揉みあげを三つ編みにしていてそばかすの少女はめちゃくちゃ可愛らしいし、絵になる。その少女がさくらんぼを耳にかけたりピンクの綺麗な花をちぎってそれを爪の上に重ねてつけ爪のようにしてそれがクローズアップされる少女の横顔とともに非常にアート的で良かった(キアロスタミの作品の時にも少し触れたが、桜桃の生産はイランの輸出の1つである)。少年が民族楽器を弾きながら、少女が踊り、カメラがそれぞれをクローズアップし、少女の身に付けているアクセサリー(さくらんぼや花のつけ爪)をとらえるカットバックはなんとも印象的である。特に顔全部をフレームインさせるのではなく顔の片方半分だったり上下どちらを半分にしたりなど様々な演出がなされていて画期的だ。正に吉田喜重監督のギルド作品を彷仏とさせた。ほぼ終盤になると街の楽器を演奏するような感じで、少年が指揮者のごとくベートーベンの音楽を大人たちに先導して奏でるのが印象的だ。

それで、先ほども言ったように少年が終始目を閉じている分、我々が見せられている映画の中の現実と言うのは、実は少年の夢の中なのではないかとも思える。実際に所々幻想的で夢心地のある描写がある。しかしこの映画には謎のまま終わる事柄もあった。まずは先ほども言ったようにロシアへ出稼ぎに行ったまま帰らない夫は結局は生きているのか生きていないのか、それとも家族を捨ててしまったのかと言う話と、少年が冒頭のシーンで参列している女性たちからパンを買うときに言い放つパンは乾いているけど、声はきれいだったよと言う意味合いは果たして何なのだろうかと言うことだ。少なからず少年にとっての音と言うのは自分と世界をつなぐ重要なものであり、そのリズムが崩れないようにしている。やはりどうしてもこの作品がイラン国内で撮影されていない理由の1つに、楽器工房で少女が踊るシーンが検閲に引っかかってイランでは上映禁止になってしまったと言う話があるが、なぜにと言う不満が私にはある。どこがどう検閲に引っかかるのだろうか…。

それにしてもこの作品は基本的には子供映画にジャンル分けしてもいいような映画なのだが、やはりあの美しいナデレーの口元のアップなど官能的な描写はなんともエロスを感じ、さらに盲目の男の子(本当は女の子だが)が優しく肌を撫でるシーンなどはたまらない。そういえば劇中で少年が女は邪魔なだけだよと言うのだが、確かにバイオリニストなどを音楽家の人たちって何か音を奏でる時や演奏する際に目を閉じているイメージ(印象)が私の中にはあるのだが、これって共感できるものなのだろうか?やはり頭の中を空っぽにして耳を集中させるためには映像をシャットダウンする必要があるのかもしれない。誰か音楽家がもしこのレビューを見ていたら教えて欲しい。劇中の中で繰り返される4つの音符、ベートーベンのシンフォニー5番(運命)が印象的なのはこの映画を見た人ならわかるが、少年(本当は女の子)が口口にするセリフもやはり一つ一つ読んでいくといろいろなメッセージ性があり印象深いというか考えさせられる。

大体は詩の一節を引用しているような感じもするのだが、ベートーベンも音楽家としては致命的な耳の病におかされているのは有名な話で、その時にこの運命と言う作詞作曲を作り出している。だから冒頭のシーンで大家さんがドアを叩くときの音が4つだったのかと今更ながらに感じた。そういえばタジキスタンと言うのはロシア語を強制されていて自分たちのアイデンティティーでもあるペルシア語を密かに受け継いできた民族であることぐらいは知っていたのだが、表現が豊かで素敵な響きのあるペルシア語圏の国だから多分撮影のロケに選んだんだろうなと言うのも感じた。なんだかタジキスタンが失われたかつてのイランを彷仏とさせるような場所だなと思う。この時期の監督の作品ってどちらかと言うと政治色が封印されてるような感じがする。ここ最近はまた政治に戻ってきてるけど、あくまでもこの作品は詩である。

それとあと1つ気になることがあるんだけど、マフマルバフの作品て「行商人」「タイム・オブ・ラブ」「サラーム・シネマ」と続いて身体的な障害を持っている登場人物が出ているな。長々とレビューを書いたが最後にこの国での検閲が何がダメなのか少し調べてみたので最後に載せとく。性的描写のあるものは禁止。外国映画でもその部分はカットされる。女性のクローズアップやヘアメイク禁止。非道徳的な登場人物に伝統的なイスラム教徒の名前(モハメド、アリ、ハッサン、ホセインなど)をつけない。女性が走っているところは撮影しない。暴力シーンも禁止(97年に大統領が変わり、検閲を担う指導省の大臣も変わったことにより、少しずつ変化している)との事…。大雑把だけど他にももっとある。ちなみにファジール映画祭というのが、イランでは毎年行われているのだが、その意味は勝利と言う意味で、革命記念日を祝う映画祭制作された全ての作品がここに出品しないとその年劇場上映できないらしい。

その後にランク付けが始まって、上映禁止かどうかを審査されるらしい。だから制作サイドにとっては秋から冬に撮影編集を終わらせなければならないので、9月以降はパニック状態になるとの事。それと色々と調べているとやはり音楽が強烈に検閲くらってるなと感じた。国から許されている音楽はイランの伝統音楽とクラシックのみで、洋楽は全て禁止だそうだ。ちなみにバフマン・コバディ監督の「ペルシャ猫を誰も知らない」を見てればわかるが、闇で出回っていて若者の間では大人気の洋楽を歌っているととんでもないことが起きる。それからやはり音楽雑誌はないし、テレビも歌番組やバラエティーがないそうだ。VHSしかないからなかなか見れる環境が少ないがぜひともお勧めする。
Jeffrey

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