オルキリア元ちきーた

ゴースト・ドッグのオルキリア元ちきーたのレビュー・感想・評価

ゴースト・ドッグ(1999年製作の映画)
3.6
『葉隠』(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に書かれた書物。肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基(つらもと)が筆録しまとめた。

「羅生門」「藪の中」は芥川龍之介の作品。

「羅生門」は権力争いにより無政府状態になった京都の羅生門で生き延びる為には人としてのタブーさえも犯してしまう人間の愚かさ、逞しさを描く。

「藪の中」は、各個人のエゴや欺瞞、傍観者のヒロイズム、あるいは年月や時代によって事実は何通りも存在する、という人間社会の実態を伝えたかったのかもしれない。

真相は何通りもあるかもしれないが、真偽は誰かが決めた正義感によって断罪される、という教訓が読み取れる。

事実が重要ではなく、権力者に都合のいい答え、大衆が納得する答えを優先する、人間社会の滑稽さが描き出されているように感じる。

(Wikipediaその他から引用)

日本大好きジムジャームッシュ
フォレストウィテカーを「ゴーストドック」というキャラに仕立て、「葉隠」を愛読し、通信手段には伝書鳩を使う、サムライの忠誠心をリスペクトする殺し屋を演じさせる。

しかし、忠誠心とは何か?
ゴーストドックのボスであるルーイもまたイタリアンマフィアの組織の構成員としてその上のボスに忠誠心を持つ身でもある。
どんなに腐敗してダメダメな組織に成り下がっていたとしても、そこに身を置くからには、その組織への仁義を通さなければならない、それがサムライの忠誠心と通じるというならば、そうなのかも知れない。

しかし、そんな中でも自分だけは助かりたいと思うのも人の心でもある。
「羅生門」のテーマでもある「生きるための利己主義」が前面に出てしまうと、たとえ自分の所属する組織でも裏切ってしまうのもまた人間であり、それを正当化するには「藪の中」の登場人物の様に、自分に有利な理屈で邪魔者は排除する、というのもまた、捨て身になった人間の「道」でもあるのだろう。

ゴーストドックは、まさに「忠誠だけで生きようとする犬」であらんとするのだが、そんな彼にも人としての矜持は存在する。

自分の正しさを貫く為には、ボスにも噛み付かなければならない時がやってくる。

果たして、自分の存在価値とは、自分を救ってくれた人間に委ねるべきものなのか?
恩義とは別次元の、鳩を信頼し、キツツキや小鳥に癒され、読書を愛し、身近な人間と心を通わせる自分。
そんな自分を生かしてくれた人に役立つ仕事を遂行する「犬」としての自分は、共存出来るものなのか?

ゴーストドックが守っているつもりでいた少女ルイーズも「藪の中」の真砂の様に、自分の生きる道を選ぶ事が、ゴーストドックを裏切る形になったとしても、それもまた「忠誠」であり、「羅生門」の老婆の様な逞しさでもあるのだろうか?

生きることだけを目的としているなら、自宅のベランダで箱舟を作り続けるのもまた「自分ルールに忠実」と言えるのかも知れない。
アイスクリームを売ることで生きる糧を得る方法も、自分のルールで生きている証でもある。

黒人が紡ぐ言葉の「刀」であるラップもまた、ジャームッシュが描きたい世界でもあるのかも知れない。

でもそんな自分の生き様、そして死に様を誰かに認めて貰わなければ、それはただの「犬死」になってしまう。
そうならないためにも、そのスピリットは継承していきたい。
そんな想いが、山本常朝に「葉隠」を熾させたのであろう事は想像に難く無い。
そしてゴーストドックもまた、愛読書に自分の存在意義を重ねて
信じるものの正しさが、自分の死によって完全証明される。


本作は、最後に黒澤明がクレジットされる。
これは「羅生門」「藪の中」を映画化したKUROSAWAに対するジャームッシュの弔意の表明なのだそうだ。