風に立つライオン

赤ひげの風に立つライオンのレビュー・感想・評価

赤ひげ(1965年製作の映画)
4.2
 1965年制作、山本周五郎原作、黒澤明監督によるヒューマンドラマの傑作である。

 江戸時代後期、幕府が設立した医療施設である小石川養成所で繰り広げられる人間模様を通して若い医師保本登(加山雄三)の医者として、人間としての成長を遂げて行く姿を描いている。

 人が最後に見せる死の瞬間を醜悪なものと捉えている保本にとって、赤ひげがそれを荘厳と捉えていることがまだ理解出来ないでいる。

 その六助(藤原釜足)の死と周辺の人々にまつわる物語、佐八(山崎努)の死の背後にある悲恋の物語、大店の娘で父親(志村喬)によって養成所内にある座敷牢に隔離されている美しい狂女(香川京子)に惑わされる保本、遊郭で虐待を受け心身共に病んだところを救い出された少女おとよ(二木てるみ)と貧困にあるが闊達な長次(頭師佳孝)との交友などオムニバス的にエピソードが語られていく。
 
 保本登は長崎帰りの蘭学医で徳川幕府の御番医を標榜していたが、あにはからんや小石川養成所に来ることになる。
 養成所の門を睨みつけ二度とこの門をくぐるものかというのが保本の本音であった。

 そこにいたのは新出去定(三船敏郎)という医師で偏屈極まりない頑固者で通称赤ひげと呼ばれていた人物であった。

 保本が初めてこの赤ひげに謁見するシーンが印象的である。
 保本が挨拶を述べると居室に背を向けて座り込む赤ひげが座ったままこちらに振り向く。
 その眼光の鋭さと威厳のある風貌は三船にしか出せない雰囲気があり、その赤茶けた顎髭が付け髭でなく本物で手で擦るがために波打っており、実に収まっていて様になっているのである。
 今ではこのシーンがパロってCMになるほどである。

 黒澤監督は「用心棒」でも撮影の休憩中に三船がした仕草を採用している。
 両手を袖内に入れ片手を懐から出して顎をさする「用心棒」では定番の所作である。

 本編でも照れ隠しや思案に耽る場面などで顎ひげを撫でるシーンが幾度となく登場する。
 
 部屋の側面には薬を格納してある引き出しが幾重にも連なっているが、黒光りして使い込まれてきた風情がある。
 これは床や戸板も同様で木目が浮き出て年季を重ねてきた重厚感が醸し出されている。
 黒澤の美術は村木与四郎氏が担当しているが、1948年の「酔いどれ天使」以降ほぼ全作品に携わってきている。
 セットを造るにあたり床や柱を一旦火で炙り出し、それを磨きあげる「汚し」という作業をスタッフ、キャスト全員で行なうというのをドキュメンタリーで観たことを思い出す。
 これにより何年も使い込んだ雰囲気が生まれるのだという。

 そしてこの壁に並んだ薬棚には一度も開けることがないにもかかわらず、薬の材料が格納されていたという話である。
 画面には登場しないが、そこまで徹底することによって生まれる現実味というのをこよなく大事にしたのである。
 「乱」の山城にしても、外観は越前丸岡城をモチーフにしてはいるものの、撮影はしない内部の梁や柱に至るまで造り込むことによって2億円をかけた城が焼ける時に重厚感が生まれ、炎そのものに張りぼてではない迫力が生まれるのである。
 
 そしてこの小石川養成所内の病室や勤務医、職員の部屋も同様で人を本当に住まわせたり、厨房に至っては本当にエキストラの食事を昔の竈や桶や樽、筵やザルなどを用いて何日も作らせている。
 画像に顕われた厨房は飯や湯気などにより確かに日常の生活感がよく出ている。
 そして何よりもモノクロ映像によって使い込まれた黒光り感や夕餉に立ち上る湯気の温かみがより効果的に迫って来るように感ずるのである。

 また、三船が珍しく刀を持たない役所ではあるが、遊郭に雇われたヤクザ達を相手に今度は医者という立場から急所を素手で打ち抜き、手足の骨をへし折る殺陣は白刃を構えたそれよりも凄まじく迫力に溢れている。
 顎が抜けたり骨の折れる音が何よりも強烈でえげつなく、観ていても痛みが伝わってきて顔をしかめたくなるほどである。
 また、この女郎屋の女将こと杉村春子の芸達者振りには舌を巻く。少女を虐待し、赤ひげにはお世辞と嫌味や罵声がまるで音楽が流れるように発せられる。

 保本は赤ひげと共に人の生死や底辺で生きている人々の生き様に触れ、いつしか本来的な医師としての責務とあり様に目覚めていく。
 当初はあれほど抵抗があった小石川養成所の勤務であったが、終盤ではあの門を意気揚々とくぐるまでになっていたのである。
 赤ひげによる日々のコーチングの所以である。

 黒澤監督の最後のモノクロ作品で映画制作にあたってはギリギリの情熱と誠実さを以って臨むという監督の信念が見事に結実した作品であり、これまで表現されてきたリアリズムの極致が本編に集約されていると言ってもよく、山本周五郎の原作を映像芸術の高みに昇華し得た不朽の名作であると思っている。