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過去のない男のkuuのレビュー・感想・評価

過去のない男(2002年製作の映画)
3.8
『過去のない男』
原題 Mies vailla menneisyytta/The Man Without a Past
製作年 2002年。上映時間 97分。
アキ・カウリスマキ監督作の常連ヒロイン女優オウティネンが、本作で02年カンヌ映画祭主演女優賞を受賞。
フィンランドのムード歌謡=イスケルマの名曲の数々とともに、監督がファンだと公言するクレイジーケンバンドの『ハワイの夜』が挿入歌として登場。
救世軍から派遣されたMの弁護人を演じるマッティ・ウオリは、実生活では人権問題を専門とする有名な弁護士だそうだ。
加えてどうでもエエんですが、警察署の前で別れ際、彼はMに葉巻を渡すシーンでは、個人的に好きなキューバ葉巻で、ウーリは葉巻の愛好家として有名だったらしい。

夜行列車でヘルシンキに着いた男が、暴漢に襲われて重傷を負い、極貧の一家に拾われて命は取り留めるが、記憶喪失に。
日雇い労働をして暮らすようになった彼は、救世軍で働く女性イルマと出会い、心を通わせていく。。。

今作品は欺瞞に満ちていました。
何気なく見りゃ、ヨーロッパ発の気分のエエ映画のひとつと切り捨てちまうかもしれない。
説教も神父も宗教的な売り込みもなく、キリスト教の価値観が浸透している(救世軍のブースに貼られたキリストの小さなポスターは例外)。
哲学的には、タブラ・ラサ、つまり人生を新たに始めるための白紙状態を提示している(タブラ・ラサはなんちゃら・ロックってデカ鼻の認識論用語で、生まれながらの人間の心には白紙のように生得観念はないという主張のたとえです。ロックはデカルトの生得観念に反対して、人間の心は生まれたとき全白紙の状態であり、経験からの印象により知識が成立すると主張した)。
今作品は不条理主義的な傾向がある(残忍な暴力の被害者からはうめき声すら漏れず、折れた鼻は痛みもなくねじり返され、暴力の被害者は正義を貫くために影から現れる)。
また、今作品は、トマス・グティエレス・アレア監督の初期のキューバ映画の輝きや(『低開発の記憶 メモリアス』1968年)、ゾルタン・ファーブリのハンガリー映画の人間性を思い起こさせてくれました。
今作品は、ハリウッドでは異質なエンターテインメントを提示してる。
世界でも稀有な存在と思われる人間の価値観についての映画的エッセイとも感じる。
セックスはなく、その必要もない。
ゴミ箱や空っぽの容器の中で暮らす貧しい人々は、ポケットいっぱいの優しさを持った豊かな人々であり、見返りを期待することなく助け合う。
金持ちや権力者(元妻とその愛人、警官、病院スタッフ、違法な居住スペースを貸す役人)には、真の感情や人間的な優しさがないように見える。
社会の貧しい人々(電気技師、レストランのスタッフ、主人公を看護する家族、救世軍のスタッフ)は、他人に親切にし、他人を気遣い、見返りを期待しない。
今作品は宗教を説くことなく、キリスト教の価値観を肯定していた。
男性に恋する主人公の女性は、結婚の誓いを純粋に尊重するため、自分の愛を犠牲にする覚悟があったりと。
贈与の芸術は神聖化されていた。
また、労働者を雇う男は、そのために銀行を襲ってでも労働者に給料を払うことを信じる。
また、ある弁護士は、救世軍が好きだからという理由で裁判を有利に運ぶ。
今作品にはフィンランドらしいユーモアがあった。
残り物のエンドウ豆を食べる臆病な犬は、メスなのにハンニバルと呼ばれ、王様や食人鬼のハンニバル・レクターを連想させる男性名で呼ばれる。
政府やその関連組織(時代遅れの法律、フィンランドの銀行を買収する北朝鮮、退職金、ストライキとストライカー、銀行員、汚職銀行業務)に対する非難もある。
カウリスマキの脚本において、列車は重要な役割を果たしている。
それは映画の始まりであり、終わりでもある。 また、過去が明らかにされるとき、短い時間ではあるが、映画の区切りにもなる。
子供たちが怪我をした男を見つけるときの青い色合いや汽車の中で日本酒と邦楽が流れる説明のつかない夕食。
脚本にある葉巻の意味はつかみどころがない。 また、曲のチョイスは、どんなに良くても行き当たりばったりのように思えなくはない。
それ以外は巧みな脚本でした。
カウリスマキは、社会の残骸を美化することで、木と落ち葉の間に確かにつながりがあることを肯定しているよう。
カウリスマキは世界を男、女、犬、汽車にミニマイズし、繊細な心に観察の饗宴を提供していた。
今作品は政治映画であり、アヴァンギャルド映画であり、コメディであり、そして、宗教映画であり、そのすべてが巧みなキャストによって愛情たっぷりにまとめられていました。
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