kuu

大人は判ってくれないのkuuのレビュー・感想・評価

大人は判ってくれない(1959年製作の映画)
3.9
『大人は判ってくれない』
原題 Les Quatre Cents Coups
製作年 1959年。日本初公開 1960年3月17日。
上映時間 99分。
映倫区分 PG12
フランソワ・トリュフォーの長編第一作。

アントワーヌ・ドワネルはパリの下町に住む13歳の少年。
学校ではいつもいたずらばかりして先生に目をつけられている。
共稼ぎの両親は、夫婦仲が余りよくなく何かと口論ばかりしていた。
そんなある日、遊ぶ金に困った彼は父の会社のタイプライターを盗んで質に入れようとしたが、すぐにバレてしまい、両親は彼を少年鑑別所に入れてしまう。。。

BS放送の録画より鑑賞。

フランソワ・トリュフォー監督の今作品は何も映画のことをしらない時期から数えると幾度となく鑑賞してます。
オッサンになり鑑賞し、ようやくその偉大さに気づき始めたかな。
監督の幼少期から着想を得た今作品(トリュフォーの処女作)は、パリで母親と義父のもとで育ち、犯罪に手を染めそうな少年を主人公にした作品です。
ほとんどの大人はこの少年を問題児と見るが、映画では彼が主人公です。

アントワーヌ・ドワネル(ジャン=ピエール・レオー)は少年の名。
彼は機知に富み、物静かで、生きていくためにできることをする。
家では両親、特に母ちゃんとの関係に悩んでいて、母ちゃんは好奇心旺盛な女性で、いつも気難しい息子と職場の男との秘密の情事に気を取られている。
アントワーヌの義理の父は、息子に愛着はないものの、いい意味で対等に接し、いいヤツに見える。
しかし、どちらの両親にも共通していんのは、家を空けることが多く、息子に十分な関心を払っていないということ。
悲しいことに、両親は息子の行動や他人からの報告でしか判断しない。
小生もガキの頃は同じような境遇やしアントワーヌの心模様は幾ばくかは理解しやすい。

学校では、アントワーヌの教師は彼を脅威的なトラブルメーカーと分類している。
アントワーヌがすべて悪いわけやなく、ただ運が味方しないのもある。
映画の冒頭シーンでは、半裸の女性が描かれたポスターが生徒たちによって静かに回されている。そのポスターがアントワーヌのところに回ってきて、教師がそれを見つけるまで、教師は机に向かってうつむいて採点をしている。
彼はアントワーヌを部屋の隅に追いやり、壁に恨みつらみを書く。
その罰として、アントワーヌは自分が書いた言葉を正確に図に書くことになる。
その夜、アントワーヌの宿題が中断される。
親友のルネは、アントワーヌが宿題を終えていないことを理由に、翌日学校を休むよう説得する。二人はフランスを歩き回り、アントワーヌの母ちゃんが夫ではない野郎とキスをしているのに気づく。
母ちゃんと息子は目を合わせるが、ルネは大丈夫だと友人を説得する。
翌朝、少年たちが学校に戻ると、アントワーヌは先生に、学校を休んだのは母ちゃんが死んだからだと嘘をつく。
怒り狂った母ちゃんが学校に到着し、息子が嘘つきであることがすぐに判明するまで、すべては順調やった。

しかし、観てる側はアントワーヌが家で一人、私的で、微妙で、希望に満ちた瞬間を見ている。
そのひとつが、バルザックへの愛。
これまた、小生もバルザックは大好き!!
愛着持てるなぁアントワーヌ。
ヌーヴェル・ヴァーグの監督達とくにフランソワ・トリュフォーは、もしかすると情景描写で心理を描写することを得意としたオノレ・ド・バルザックを尊敬していたのではないかと想像してしまう。
アントワーヌはバルザックを敬愛し、家で彼の伝記を読んだり、バルザックを祀った祠にロウソクを灯したりしている。
ある日学校で、生徒たちは自分の人生における重要な出来事についてエッセイを書くよう提案され、アントワーヌは祖父の死というテーマを選ぶ。
しかし、教師はこれを盗作と見なし、アントワーヌをルネとともに教室から追い出す。
二人はルネの家にしばらく居候し、犯罪生活の期待に応えていたが、タイプライターを盗み、アントワーヌがそれを返そうとして捕まる。
その後、彼は非行少年院(鑑別所かな)に送られる。。。

今作品は悲劇を描いているわけではない。
むしろ、アントワーヌ・ドワネルの人生と、そこで起こる様々な出来事の結果として彼が下す決断を追った人物研究と云える。
こんな今作品でさえ、幸福な喜びの瞬間をいくつか捉えている。
そのひとつは、体育教師がアントワーヌのクラスを引率してパリの街をジョギングする場面で、少年たちが2人ずつはぐれて逃げていくのに気づかない。
また、アントワーヌのバルザック祠が火事になり、両親がストレスで怒鳴り散らすシーンもある。
彼の母親は映画館への外出を提案し、3人はそこに行くことに。
映画が終わると、3人は車の中で笑い、見たものを振り返る。
アントワーヌと彼の家族にとって、この瞬間が希望の瞬間なんちゃうかな。

しかし、映画の後半、アントワーヌがタイプライターを盗んだ罪で捕まった後、多くの痛ましい瞬間が訪れる。
父親は彼の行動に辟易し、警察署に彼を連れて行くが、そこで彼は留置場に送られ、その後、娼婦や泥棒でいっぱいの警察のワゴン車に乗せられる。
両親は当局に、息子はまた逃げ出すだろうから引き取れないと相談する。
その結果、息子は非行少年院に連れて行かれる。これらのシークエンスは、アントワーヌの人生の現実を、彼自身の結果と同調して表現している。映画の終盤、彼は何も云うことがないかのように、静かで控えめなまま。
アントワーヌ・ドワネルの物語と彼の数々の経験によって、人生は好奇心と探究心で満たされる。99分の映画の中にあまり無駄はない。
トリュフォー監督は、主人公の中心的な物語を維持しながらも、一分一秒を創造性で溢れさせる。
毎週土曜の夜に観るファミリー映画として軽く見られる作品ではなかな。
十分に考え、慎重に吟味し、結論を出すべき映画と云える。
今作品の巧なところは、そんなところだけにあるのじゃなく。
細部に至るまで、今作品は操縦し、進行することができる。
この物語には、悲しみ、後悔、家族、温かさ、幸福、ユーモア、価値観、選択の要素が含まれている。まるで人生そのもののように。

余談ながら、
作中、ボードに書かれた詩は、ジャン・リシュパンの『Épitaphe Pour Un Lièvre』って詩です。 
この詩はアレクサンドリーヌ詩、つまり12音節の行で構成された近代フランス詩の典型で、小生の好きな詩人の一人の詠んだモノなんで愚かにも和訳して抜粋しときます。
映画のお供にどうぞ!!
なお、フランス語は苦手ですので、英文化されたものを和訳しましたので誤りがあればお許しを。

   Épitaphe pour un lièvre
          Jean RICHEPIN
           1849 - 1926

Au temps où les buissons flambent de fleurs vermeilles,
Quand déjà le bout noir de mes longues oreillesSe voyait par-dessus les seigles encor verts,
Dont je broutais les brins en jouant au travers,

Un jour que, fatigué, je dormais dans mon gîte,
La petits Margot me surprit. Je m'agite,
Je veux fuir. Mais j'étais si faible,
si craintif !
Elle me tint dans ses deus bras : je fus captif.

Certe elle m'aimait bien, la gentille maîtresse.
Quelle bonté pour moi, que de soins, de tendresse !
Comme elle me prenait sur ses petits genoux
Et me baisait ! Combien ses baisers m'étaient doux !

Je me rappelle encor la mignonne cachette
Qu'elle m'avait bâtie auprès de sa couchette,
Pleine d'herbes, de fleurs, de soleil, de printemps,
Pour me faire oublier les champs, les libres champs.

Mais quoi ! l'herbe coupée, est-ce donc l'herbe fraîche ?
Mieux vaut l'épine au bois que les fleurs dans la crèche.
Mieux vaut l'indépendance et l'incessant péril
Que l'esclavage avec un éternel avril.

Le vague souvenir de ma première vie
M'obsédant, je sentais je ne sais quelle envie ;
J'étais triste ; et malgré Margot et sa bonté
Je suis mort dans ses bras, faute de liberté.

     ウサギの墓碑銘
        ジャン・リシュパン
           1849 - 1926
         愚訳kuuことGEORGE

叢が赤い花で燃ゆる
私の長い耳の黯い穂先が
まだ青々とした裸麦畑の向こうに
その小枝をかすめながら
私は遊んだ

ある日、私は疲れ飼い葉おけで眠った
小さなマーゴットが私を驚かせました
私はそわそわして逃げ出したくなった
でも、とてもか弱いく、とても怖かったのです
彼女は私を両腕で抱きしめた。

彼女は確かに私に情を抱いた
親切で思いやりがあり
そして温かかった
小さな膝の上に私を乗せて
そして私にベゼ(キス)をした
彼女のベゼはなんて甘酸っぱかったんだろう

今でも覚えています
甘い隠れ場所を
ベッドの横に作ってくれた
草と花と太陽と
そして春がいっぱいの野原を
自由な野原を、忘れさせるために

でも、摘み取られた私が新鮮な草?
飼い葉おけの花よりも
森の棘の方がまし
永遠の四月の奴隷よりも
独立と絶え間ない危険のほうが

最初の人生の漠然とした記憶が
私を悩ませ嫉妬のようなものを感じた;
そしてマーゴと彼女の優しさにもかかわらず
私は彼女の腕の中で死んだ
自由がなかったために

些細なガキの悪戯が、運命に翻弄されながら自らの人格を形成してゆく過程を綴った成長譚。
冒頭に『アンドレ・バザンに捧ぐ』ちゅうメッセージがあるが、パザンは戦後のフランスで影響力の大きかった映画批評家であり、ヌーヴェルヴァーグの精神的父親と称されることもある。 
            Wikipediaより。
少年鑑別所を出た10代のトリュフォーを引き取って面倒を見ており、家族に恵まれなかったトリュフォーにとって、バザンは精神的父親であり、庇護者のような存在となっていた。
その悲しい10代の体験を大人と子供の両方の目線で巧みに一つの物語として描く手法が巧。
タイトル通りに子供目線で大人を憎しみの対象として描くには、自らが大人としての立場を弁えていなければその事情など描けるものではない。
不遇な少年時代を過ごしながらも、その後に出会った人生の師とも云えるパザンの保護下によって映画的視力を培い、自らの私小説を独自の表現スタイルとして結実させたトリュフォーの金字塔。
小生にはいまだに師匠と呼べる人は現れていない。
むしろ、物語こそ人生の師匠でもエエんかなぁなんて最近思う。。。
kuu

kuu