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ファニーゲームのkuuのレビュー・感想・評価

ファニーゲーム(1997年製作の映画)
3.9
『ファニーゲーム』
原題 Funny Games.
製作年 1997年。上映時間 103分。

今作品はロンドンではビデオの発禁運動まで起こったそうな。 
暴力的なシーンが意図的に映されないことや、犯人が映画を鑑賞している観客に時折サインを見せたり、語りかけてくるメタフィクション演出なども特徴。
メインの音楽はジョン・ゾーンの『Bonehead』と『Hellraiser』だけ。
2008年、ミヒャエル・ハネケ自身がハリウッドリメイクした『ファニーゲーム U.S.A.』が公開、主演はナオミ・ワッツ、ティム・ロスだそうです。

穏やかな夏の午後。
バカンスのため湖のほとりの別荘へと向かうショーバー一家。
車に乗っているのはゲオルグと妻アナ、息子のショルシ、それに愛犬のロルフィー。
別荘に着いた一家は明日のボート・セーリングの準備を始める。
そこへペーターと名乗る見知らぬ若者がやって来る。
はじめ礼儀正しい態度を見せていたペーターだったが、もう一人パウルが姿を現す頃にはその態度は豹変し横柄で不愉快なものとなっていた。
やがて、2人はゲオルクの膝をゴルフクラブで打ち砕くと、突然一家の皆殺しを宣言、一家はパウルとペーターによる“ファニーゲーム”の参加者にされてしまう。。。

ハネケの心理スリラー兼社会的良心である『ファニーゲーム』に対する反発や非難は、反動的な観客の過剰なショックとしてこれ以上ないほど存在するのであった。

今作品『ファニーゲーム』ちゅうタイトルは不思議なもので、この『ゲーム』には特に面白いところがない。
これは間違いなく、これまでに作られた映画の中で最も容赦なく、狼狽させられる作品のひとつかなぁと思います。
ホラーやないが、緊迫したシーンは『悪魔のいけにえ』(1974)や『ザ・リッパー』(1982)のような衝撃的な親和性を持っていた。
ホンでもって、これがコメディやないことは確かであるにもかかわらず、俳優の大半は皮肉たっぷりに言及したり、カメラに向かって無意識に顔をしかめたり、真面目な映画ちゅうよりは、メル・ブルックス(俳優としても監督としても『コメディの重鎮』として名高い存在)のなりきり映画にふさわしい振る舞いをしてる。
しかし、多くの不快な矛盾は、ハネケの微妙な映画的深み(彼は雰囲気に合わせると良い監督になる)を脱線させるだけ。
黒板に書いても、後ろの席の近視の学生でもわかるような、非常に明確なメッセージを投げかけている。
今作品は、緑豊かなオーストリアの田園地帯を家族連れの車が走っているところから始まる。
母親のアンナ(スザンネ・ローター)、父親のゲオルク(ウルリッヒ・ミューエ)、幼い息子のジュニア(シュテファン・クラプチンスキー)の一家は、友人たちとボート遊びや釣り、娯楽でのんびりと1週間を過ごす途中であり、まさにステレオタイプなブルジョアの肖像画であった。
今作品の設定を壊したくはないんやけどが、映画が始まってわずか10分、一家が湖畔の豪華な家に到着した瞬間から、事態が険悪になることが察知できる。
白装束の若い2人の脅威の到着を設定する際、ハネケは重い手を下している。
この2人の若者は、ボニーとクライド(1930年代前半にアメリカ中西部で銀行強盗や殺人を繰り返した、ボニー・パーカーとクライド・バロウからなるカップル。)の対極にあるんではなく、ローレルとハーディ(ローレル&ハーディはかつてサイレントからトーキーの時代にかけて活躍したアメリカのお笑いコンビ。
チビで気弱なスタン・ローレルと、デブで怒りんぼのオリヴァー・ハーディ)に相当するかな。
殺人鬼のように見える。
当然ながら、この時点から『ファニーゲーム』は大きく軌道を外れてく。
その後に続くんは、これまで製作された中で虚無的で品位のない人間像のひとつかも知れへん。
1時間に及ぶ暴力の猛攻撃、性的、肉体的、精神的な暴力が、しばしば同時に起こる。
ハネケはその暴力が画面上に一切描かれないように徹底しているんやけど、次から次へと血まみれの状況を見せられ、犠牲者の大量の叫びと勝者のコミカルな頭のひっかきが添えられる。
しかし、個人的には道徳的な怒りではなく、今作品が良い映画ではないという根本的な事実に基づいている。
深刻なメッセージを伝えようとしながら、ハリウッド大作のような浅薄で様式美にあふれた空虚さをもって、それを実現していると感じた。
暴力や虚飾を理由に、今作品を批判するのは、間違った種類の映画を見ているのだと思う。
今作品は暴力がテーマになっている(はず、多分)。
ハネケがスピルバーグの近親者ではないことは明白やし。
映画的な圧力構築という点では、今作品は悪くないし、少なくともいくつかの設定には創意工夫の輝きがある。
しかし、ハネケはこれらのシークエンスに何もしない。
今作品における彼の全目的は、観てるモンに暴力に対する欲望と、登場人物が殺されることへの期待感を煽ることやろし、彼のメッセージは最初から明確であり、1時間もすると耳障りになってくる。
端的に書けば今作品は観てる側にショックを与える以外のことはしたくないんかな。
洞察力も、創造性も、演出もない。
要するに、大きな期待を抱かせるが、統制のとれていない映画やった。
『ありふれた事件』(1992)やオリバー・ストーンの過剰な『Natural Born Killers』を見たことがあるなら、この種の作品を何度も見たことがあるやろし、なぜこの種の作品がうまく機能しないかを理解できると思います。
これは、映画的には車の事故と同じで、厄介で暴力的で、決して巻き込まれたくないものやけど、観てる側にとっては、ほとんど禁じられた、覗き見のような好奇心を抱かせる。
もし、今作品『ファニーゲーム』の虚無的な騒乱に立ち向かい、何らかの理由で、この映画の行き過ぎた脱線に憤慨し、驚愕したけど、知った上での事やし仕方ないかなぁ。
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