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ナチュラル・ボーン・キラーズのkuuのレビュー・感想・評価

4.0
『ナチュラル・ボーン・キラーズ』
原題Natural Born Killers
製作年1994年。映画上映時間119分。

クエンティン・タランティーノが不遇時代に執筆した脚本を原案に、オリバー・ストーン監督がメディア批判を盛り込みつつ~の、16ミリフィルムやVTR映像、アニメ合成などを多用した斬新な表現技法で活写した米国映画。
(完成した映画は、タランティーノの元の脚本とはほとんど似ていません)

理由なき殺人を繰り返すカップルの逃避行を描き物議を醸したバイオレンスアクション。

ガキの頃から父親に性的虐待を受けてきとったマロリーは、肉屋の配達人ミッキーと出会い恋に落ちる。
ミッキーはマロリーの両親を殺っちまって、2人は車でルート666を旅しながら無差別殺人を繰り返していく。52人もの命を奪った彼らはマスコミの報道合戦によって全米の注目を集め、若者たちのヒーローとして崇められるように。
そんな2人を、名声を欲する暴力刑事スキャグネッティと視聴率アップを狙うテレビキャスターのゲールが追う。。。

主人公は、52人の命を奪った殺人犯ミッキーとマロリーやけど、行動や軌跡がリアルに描かれるわけちゃう。
監督の関心は、現実を侵食していくテレビにあると書いてた。
イカれたカップルは、タブロイドテレビの番組ホストや売名のために凶悪犯を捕らえようとするポリス、ほんで罪とヴァイオレンスに追・イカれ視聴者によってヒーローに祭りあげられる。
ストーンはそれを単なる幻想とは考えていない。
誰やったかが、後期近代資本主義てのは、人間を断片化された現実と意味のない選択の氾濫の中に放り出す、なんて書いているけど、作中は将にそないな世界観かな。
映像は35ミリの実写からTVのニュースやモノクロ、アニメへと切り替わり、音楽もロックからオペラまで75曲が散りばめられている(小生は数えてないけど)。
ほんで、作中に引用される、
ロドニー・キング事件や
ケリガン選手殴打打事件、
O・J・シンプソン事件と作中に挿入されてる
一方、この作品には、私的ながらYouTubeとかで過去にさかのぼってTVを見直したくなるようなすような興味そそる視点も盛り込まれてる。
父ちゃんから性的虐待を受けていたちゅうマロリーの過去が、50年代に驚異的な視聴率を誇ったホームコメディ『アイ・ラブ・ルーシー』をのパロディ
『アイ・ラ ブ・マロリー』として描かれるエピソードは、へんなインパクトがある。
監督は、ヴァイオレンスな『アイ・ラブ・マロリー』で、幻想を暴くだけじゃなく、抑圧的だった米国の50年代ちゅう時代を突き破り、強引に90年 代につなげちまう。
順応主義や全体主義がはびこる50年代に見いだした極端な非順応主義者としてのヒップスター(基本的には流行に敏感な人たち、ちょっと変わったサブカル好き趣味の人たちを指します。)の暴力性は、これまた誰やったか忘れたがこないなこと云ってた。
『個人的な暴力でどんな代価をはらっても、われわれをわれわれ自身にかえそうとするヒップは、野蛮人を肯定する。
なぜなら、人間性についての原始的情熱がなくては、個人的暴力行為はつねに国家による集団的暴力行為にまさるべきものだと信ずることはできないからである』
なぜ、こないな引用したかと云うと、監督がよく似た言葉をいってた。
『警官、看守、刑務所、記者ーー彼らはすべて、みずからが冷酷で全体主義的な刑罰の巨大で奇怪な網の一部となってしまったことを実感しているはずだ。
このような状況では、骨の髄からのアンチヒーロー、ミッキーと マロリーのような単独で行動する孤独な殺人者たちが顔のない抑圧的な体制の表面に浮かびあがり、人間的な顔を求める米国人たちの心をとらえるのは当然 である云々」
監督もこの映画で集団的な暴力と個人的な暴力を対置させている。
つまり、ミッキーとマロリーは90年代のヒップスターと云っでも過言ちゃうかな。

余談ばかりですが、主人公は、1958年に中西部で大量殺戮に乗り出し、国を恐怖に陥れたネブラスカの若いカップル、チャールズ・スタークウェザーとカリル・フガテに大まかに基づいているそうです。
テレンス・マリックのバッドランズ
ミッキーが薬局で使用している銃は、9mmベレッタ93Rと、457口径のウィルディマグナム(Death Wish 3 邦題『スーパー・マグナム』(1985)で紹介されている銃)です。
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