まりぃくりすてぃ

ノルウェイの森のまりぃくりすてぃのレビュー・感想・評価

ノルウェイの森(2010年製作の映画)
3.0
菊地凛子の直子が意外によかった✨ (声優にしかなれなそうなクセ強な凛子の幼声だけは最初当然ノイズだったけど、手紙朗読時に他女優声と区別しやすくて、結果として吉✨)
松山ケンイチのワタナベ君も無難なワタナベらしさがあった✨
水原希子の緑も可愛くてナイス✨
ほかみんな、適材適所と言ってあげようと思えば思える✨

サナトリウムいいな🤗 私もサナトリウム入りたぁい🤗 松茸ごはん毎日!🍄

で、本作は原作小説を “わりと忠実に” なぞってる。終盤に映画としても文芸映画としても息切れしちゃうんだけども。
「ナメクジ食う」「燃やす大量の生理綿」「緑の父親とつまらんサービストーク」「レイコの不気味な曇った軽い過去」「レイコとワケワカラン祝祭💏」といった綺麗くないパートをことごとく省き、一貫して映えトレンドっぽ俳優たちの詩的な美モダン映像で若者受けを狙う。

❶原作未読の人
❷既読で原作嫌いの人
❸既読で原作好きだが原作の本質がわかってない人
❹既読で原作好きで原作の本質をちゃんとわかってる人
❺既読で原作を好きになって原作の本質をちゃんとわかってた時期があったけど、今はもう原作の意味や価値を卒業したというか原作に何の思い入れもなくなってる人

私は❶から❺までの全員の気持ちがわかる。自分がすべて辿ったから。
そして、この映画をお気に入る人は、❶と❸のうちの一部の人だけだろう。ほかはまあムリだ。キャストとか部分部分に惹かれ得るのみで。

世界中の大勢が (そしてひょっとしたら村上春樹自身も今はもう) 勘違いしてる。『ノルウェイの森』の主題は、〈喪失〉ではなく、〈虚無〉だ。
そして人が虚無に陥るにあたって、わかりやすい原因なんてない(あるいは、真因は本人にも他者にも知り得ない)。だからこそ虚無は私たちの現実世界生活においても文学の俎上の材料としても、魅力的であるとともに厄介なのだ。
私は、個人的に虚無の人をよく知ってる。その人の沼に引き入れられそうになったことがある。本当に穴があくんだよ、人の心には。

誰かを失ったり、性に難題があったり、それらが多少関係して統合失調症や鬱病その他PTSD系諸症に苛まれることは、人が虚無に陥る「きっかけ」にはなるが、即「原因」ってわけではない。虚無には原因とか理由なんてない場合が多い。ある日突然来て居座ることもある。
ムルソーはなぜアラブ人を殺したか? 「太陽が眩しかったから」が世界思想史上の重要な哲学になったのはどうしてか?

ワタナベ君も緑も、虚無なんて理解できない。レイコさんは虚無の入り口あたりを少し知る。
そして直子は、古井戸だ。“イザナミを追って森を彷徨う”イザナギは、「私は空っぽな古井戸。ワタナベ君は来ちゃだめ。どうか私という井戸に落ちないで」と言われても優しく彷徨いたがる。「私とあなたは人間の種類が違うの。けっしてもう理解し合えることはない。でも、あなたが私のそばにいてくれたことは、ずっと覚えてるよ。ありがとう。とても優しいね。待ってくれるなら、もう少しだけ待ってて。戻れるかもしれないから。頑張るから」に一縷の期待を優しい♂として抱いてしまうのが普通人・ワタナベだから。(ワタナベっていう姓からして、普通だ。。)

わかる人にはわかること。
自分を失くした18〜19歳の女の子というものは、他の世代とは少し違う。処女や準処女だったら特にだけれど、「ひょっとしたら優しい他者とのカラダの交わりで何かを摑める(生まれ変わる/生き直す)ことができるかもしれない」と想ったりするものだ。
これは、その年頃の、好奇心と初心をたまたま幼稚かつ真面目なピュアバランスで併せ持つ女の子特有の思考だろう。(もちろん、すべての18〜19歳の女がというわけではない。)
直子が性行為にこだわったのは、主にそのせいだ。キズキとの・ワタナベとの不如意や如意に苦しんだことが虚無の原因なのじゃない。虚無へのお薬になるかもと直子がたまたま性行為に期待してみたというだけのことだ。
当然、性行為が虚無への特効薬になるなんてことはない。(てか、とっくに “一人宇宙” して仙女になってればいい。)
そしてワタナベ君や緑やレイコや永沢らの、性欲や、キズキの死は、虚無の直子の救われなさへのアクセサリーにすぎない。仮にもっと好意的な呼び方をするとしても、衛星とか惑星。

繰り返して書く。『ノルウェイの森』の主題は〈虚無〉。
〈喪失〉や〈喪失感〉は、〈性〉とともにきっかけの一部や飾りにすぎない。
しかしながら、生き続けていかなくちゃいけない側(虚無を理解できるわけがない・古井戸じゃない側)のワタナベ君や緑や永沢や突如のレイコは、普通に性の獣たちだ。作者の村上春樹がなぜ年取って最近すっかり「知性のあるノンポリの性獣」としか呼ばれなくなったかは、みんなだいたいわかってると思う。

で、上に長々私が書いた、原作の本当の意味価値からすると、この映画は、終盤の京都シークエンス以降が崩壊してる。格好の現代哲学ネタであり実在もする〈虚無〉をアンユン監督がまったく理解してないために、終わりへ行けば行くほど直子をこそ筆頭に全人物が単なる恋のケダモノに成り下がったのだ。
松山ケンイチの海辺での慟哭シーンのあらゆる下手さ(特に音)は、よくいえばB級堕ち、貶せば正体露呈だし、、
結局のところ、三女優を美しく並べることにだけ監督と製作者たちが専念しちゃった感じの哀しい空回りな終わり方だった。
原作では、派手なところのないおばちゃんだったレイコが、その原作中ではまさかの最後の祝祭シーンで大勢の読者の目を点にさせた。あの終末を、綺麗すぎる霧島れいかがまさか本当に体当たり演技(☚全裸晒して)で大祝祭にすんのかどうか私たち既読者をハラハラさせて、結局“脱ぎます詐欺”。
挙げ句のはては、原作にては大事な大事な宝箱だったラストの電話会話を、まったくのノームードで消極的に映画がなぞる。
こんながっかり終盤でいかにも80年代バブル〜90年代無機質〜21世紀こぢんまり……なセックス執着オ・ン・リ・ー・ド・ラ・マにしちゃうぐらいだったら、終盤をごっそり独自ストーリーで創作し直せばよかったのに!!!

敗残ラストのすぐ後に、ザ・ビートルズの Norwegian Wood が流れた。じつのところ “原作にカッチリ合った真に神秘性が深っぽい楽曲” ではなかった(のは村上自身わかってる)わけだから、作者レノンや西洋ポピュラー音楽史上初のシタール取り入れ奏者ハリスンの極めて思想的な(もちろんレノンのほうは大変にポリティカルだった)人生の重みにちっとも応え得ないノーベル賞欲しさだけで余生を進んでるだけみたいなセックス地獄・観念小説天国の村上への喝入れのために、監督や製作者が皮肉交じりに海辺の慟哭シーンのバックに(まあノンポリの範疇にいたと乱暴にいえる)ザ・ローリングストーンズの初シタール曲 Paint It Black を(仮に許可が下りなくても)せめてイントロの連呼だけでもやかましくやかましく鳴り響かせてくれたなら、演技演出脚色の崩壊は免れたかもね。絶対、ストーリーのそのところに合った歌詞だし。

ところで、この映画を観て「ちっとも60年代の学生運動の頃の早稲田キャンパスとかを再現してない」と不満に思うおじいさんおばあさんがいるかもだけど、バブル生まれの元文学部学生の私が思うに、、そもそも関西生まれで高3まで神戸にいた男女がわずか数カ月後に東京で再会して四谷あたりを延々二人だけで散策しながら会話する時に関西弁を一言も発さないこと自体が10000000%ありえないことなので、そういう原作小説はそもそもアメリカナイズされた物質文明謳歌のバブル期日本での無国籍的無味無臭トレンディ商品だったのは明白。つまり、『ノルウェイの森』は最初っから「60年代の日本」の小説でも何でもない村上春樹の好き勝手なお洒落世界なんだよ。(その意味では、時代非限定性が原作に元々あるため、21世紀臭いモダンみの映画を作っちゃうという作戦は、盲点をついてて有効。かも。)
村上文学は、東西冷戦時代の生真面目で湿っぽくて暑苦しかった?邦文学を駆除するために世の中に登場したんだろうと私は分析済み。
目上の人々からいろいろ聞いた証言を総合するに、80年代前半までは日本の“純文学”の中の知性派の若者が愛読する国内の青春小説の金字塔といえば東大卒の柴田翔で、その芥川賞作には全共闘世代の気高い女子大生が自殺するにあたって長い長い理路整然とした遺書を恋人あてに遺し、そのクライマックスには「あなたは私の青春だった」の名セリフ。
それに対し、87年の村上春樹は次々と主要人物たちを遺書も理由もなしに自殺させていき、しかも徹底的にノンポリ。文体も語彙も素人臭いぐらいに(本当は下手ではないのだけれど)平易。それでいて “容易に映画化され得ない” フワフワ性&観念志向により純文学の強みをこれでもかと突きつけて、昭和末〜平成の純文学業界の東大関地位を(西大関の村上龍とともに)邁進(したのじゃなかったかな)。。。

まあ、村上なんてどうでもいいや。

私も京都の居心地よさそうな山ん中のサナトリウムで松茸ごはん毎日食べてのんびり遊んですごしたぁぁぁぁい!!!!