まりぃくりすてぃ

折鶴お千のまりぃくりすてぃのレビュー・感想・評価

折鶴お千(1935年製作の映画)
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あたし泉鏡花は一冊も読んでなくて、溝口健二への警戒心をずっと持ってる。
女に執着してて、女を見下してて、そのうえで「女には敵わない」と結論してる男性芸術家というものは、好みの女を毎回最優先で描きたがり、その女の内面をやたら美化(または逆に悪女化)する傾向が強い。当時十七、八才だった山田五十鈴さんを「尽くして滅ぶ天女」に仕立て上げた本作に、あたしは警戒心をいっそう強められた。
“女性映画” ばっか作ったわりには溝口監督が女のココロもカラダもあんまり理解してなかったことは、本作のずーっと後の1950年の『雪夫人絵図』の何コレなヒロイン像が証明しちゃってる。

えっと、あたしの考えでは、、
女性は生物学的に、利他性を必ず持つ生き物。男性は、闘争場裡に常に身を置くように生まれついてる。
あたしたち女は本能のそういう良いところを伸ばして愛燦々的な生き死にを、そして男の人たちは本能を乗り越えて己を律して努力の継続によって大仕事とかを成し遂げる立派な生き死にを、めざさなきゃ、どっちもただの哀しい下等動物(のせいぜい延長)で終わる。
その意味で、本作の「尽くしぬくお姉ちゃん」は何ら責められるものじゃない。方向性としては正しすぎるぐらいだ。
“薄命だらうが団円だらうがあたしはかまわん。要は魂の真贋の問題じゃ。都合よすぎるんで御座いますよ”

映画としては優れてるものの。。

男にとってだけ好都合な世界観は、古今東西に溢れてる。
例えば東には儒教があるが、西のキリスト教(正確にはパウロがイエスの死後に勝手にプロデュースしたパウロ教)では「神聖不可侵な処女マリア」「男の肋骨から造られた従順でお人好しで頭悪いイヴ」「外典に登場する、アダムと対等に土くれから造られてアダムと喧嘩して闇に消え、男を誘惑する悪魔と化すリリート」等々、男性目線で伝承されてきた魔法的ベタキャラたちが幅をきかせてる。
史実的には、イエスの妻だったマグダラのマリアこそが最初期の最重要人物の一人だった。イエスの刑死後、悲嘆にくれてぐずぐずしてた弟子たちをマグダラのマリアがあくまでも一人の人間としてリーダーシップを発揮して「さあ、前を向いて進みなさい」と励まし導いたんだ。男も女もなく一つの現実存在として! ところが、ご都合主義の物語じゃないそんなリアルな人間像が記されたマリア書(マリアによる福音書)を、その後に現れたパウロとその末裔たちのローマの教会が焼き捨てた。マタイ書・マルコ書・ルカ書・ヨハネ書だけを福音書として選んだバチカンが、男性目線の世界観を二千年にわたって西洋にとどまらず全地球人に押しつけようとしてきた。結果は、理想世界にまだまだ遠い今日この頃だ。
人間のメスは、理解力・想像力の足りない人が考えるよりもはるかに生々しく清く濁りつつ薄汚く中庸を極端を平凡を特別を呼吸し揺れて動いてるんだ。天使にするな。


あ、映画のことを。
20:00ぐらいからの屋内シーン。左へパン (orドリー) して障子をそのまま撮り流して振りを止めて右へ男をフレームアウトさせ、長回しのまま右からフレームインさせた後ろ歩きの女にあたしらを静止で注視させ、そして左へパン。そこんとこに、並々ならぬ映画作りセンス(単なる構図や動作一つの決めじゃなく全計算が有機的に連なって、まるで “生命体としての大海”)を感じた。日本家屋内で特に凄味がわかりやすくなるのが溝口技だ。
ほか枚挙に暇ない。
女優映画とはいえ、主演男優(尽くされる側)の夏川大二郎さんもなかなか味よしだった。うなだれに次ぐうなだれで、さほど難しそうな演技はしてないが。ロウソクの刑のとこ、本物だろうね、面白。ロウが垂れて深刻に火傷してハゲになる話かと想ったのに違った。

あたしに褒められる筋合いもないだろうけど、溝口さんはものすごく実力がある。

おわり

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