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籠の中の乙女のkuuのレビュー・感想・評価

籠の中の乙女(2009年製作の映画)
3.8
『籠の中の乙女』 映倫区分 R18+
原題 Dogtooth
製作年 2009年。劇場公開日 2012年8月18日。
上映時間 96分。
2009年・第62回カンヌ国際映画祭『ある視点』部門でグランプリを受賞し、10年・第83回米アカデミー賞では、ギリシャ映画として史上5本目となる外国映画賞にノミネートされたサスペンスドラマ。

妄執にとりつかれた両親と純真無垢な子どもたちを主人公に、極限の人間心理を描く。
ギリシャ郊外に暮らすある裕福な一家は、外の汚らわしい世界から守るためと、子どもたちを家の中から一歩も出さずに育ててきた。厳格で奇妙なルールの下、子どもたちは何も知らずに成長していくが、ある日、年頃の長男のために父親が外の世界からクリスティーヌという女性を連れてきたことから、家庭の中に思わぬ波紋が広がっていく。

🎼かごめかごめ 籠の中の鳥は~
いついつ出やる~ぅ
夜明けの晩に~ぃ
鶴と亀と滑った 後ろの正面だあ~れ?

物語が展開するのを見ながら背筋が凍るような不快感やエキセントリックな雰囲気のほとんどは、この家族が一般の表意体系から外れたルールに従って生活しているのを見ているからやと思います。
彼らは常識に反する事実を聞かされ、異なる意味を持つ言葉を教えられ、その結果、観る側は異質な視点から世界を体験する。
寓話が現実的に描かれることで、不条理な要素がコミカルなまでに高まっている。
ランティモスのトレードマークとも云える、異常なものが普通として描かれることで、不条理な効果を生み出していた。
あるシーンでは、一種のエンターテイメントとして、父親がフランク・シナトラのフライ・ミー・トゥ・ザ・ムーンを演奏し、子供たちに『これはおじいちゃんが歌っているんだ』と云う。
子供たちが歌に合わせてぎこちなく、しかし、楽しそうに踊っている間、父親は子供たちに歌を次のように訳す。
パパは僕たちを愛してる。
パパは僕らを愛してる。
僕たちは彼らを愛している?
そうだよ。 兄弟姉妹も私を愛してくれているから。
私の家には春が溢れている。
私の小さな心にも春が溢れている。
両親は私を誇りに思っている。
でも、もっと頑張るよ。
私の家、あなたは美しい、愛している。
なんて嘘八百をおしえる。
究極の権威の代表として、子供たちは、母親が動物を産むことができることや、猫が人肉を食べる危険な動物であることなど、両親の云うことは何でも疑うことなく信じる。
今作品に登場する親は、恐怖やしつけを強制することによって権威を行使するのではなく、もはや観てる側のシニフィエ(ざっくりと言い換えるとシニフィアンは、単語、名称、音、シニフィエは概念または特徴らイメージということ)とは一致しない、まったく新しい意味体系を子供たちに提示することによって権威を行使する。
その他にも、彼らは『キーボード』という言葉を膣のことに使ったり、ゾンビという言葉を黄色い花のことに使ったりする。  
これは、外から、つまり彼らの住むシステムの外から見れば、哀れで嘆かわしいことに聞こえるかもしれない。
しかし、彼らの立場になれば、何も異常なことではなく、権力者の命令を常識として受け止める。
皮肉なことに、映画の終盤になると、観てる側は次第に、自分たちこそが寓話の対象であり、我々が外と思っている世界は、我々が内側に閉じこもっている別の構造物であることに気づく。
大切にしている家族の価値観、 
信じている宗教の教義や、
大切にしている人道的信念が何であれ、すべては我々を閉じ込めるために作られた大きなシステムの一部なんやと。
残酷なジョークの対象であることを知っているからこそ、今作品を観て酸っぱい笑いで唸る。
物理的に、あるいは比喩的に、我々が自由になれるかどうかは、典型的なランティモス的な、不可解な結末の中で観る側が決めることなんやろな。
ヨルゴス・ランティモス監督の作品は不器用やけど、美しい。
その上、出演者たちの発音と身振りは、映画全体のシニカルな精神と完全に調和していんが好きやなぁ。
ギリシャ人にはまだ叙事詩を作る能力があると確信した。
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