風に立つライオン

グラン・トリノの風に立つライオンのネタバレレビュー・内容・結末

グラン・トリノ(2008年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

 2008年制作、クリント・イーストウッド監督によるヒューマンドラマの秀作である。

 78才にしてイーストウッドは俳優業を引退して監督業に専念しようとしていた矢先にこの本に出会い、頑固で偏屈な退役軍人のキャラクターに惹かれ最後に演ってみようと思ったという。
 実際にはその後も「人生の特等席」、「運び屋」、「クライ・マッチョ」にも精力的に出演している。
 現在92才になるがそのバイタリティには頭が下がる。

 物語の主人公コワルスキー(クリント・イーストウッド)はかつて自動車の街として名を馳せたデトロイトのフォード工場に50年勤め上げ、朝鮮戦争にも従軍した経歴のあるたたき上げの頑固で偏屈な独居老人であった。

 コワルスキーはそんなキャリアもあり、車はアメ車に限るとして「グラン・トリノ」をこよなく愛していた。
 彼はまさにジョン・ウェインであり燃費なんかを気にかけない古き良きアメリカそのものなのだ。

 妻の葬儀に子供達や孫など親戚一党が集まるが、思いの無い形式的な参列で孫に至ってはチャラチャラした格好で退屈この上ない体であった。
 それでもコワルスキーは怪訝な顔こそするが黙って弔う。
 なにせ「俺は嫌われ者だが、妻は最高だった」と思っていたのである。
 このシークエンスだけで身内との希薄な絆や息子達も手を焼いている頑固な老人像が浮かぶし、息子の嫁さん達の関心は金銭損得だけしかない味気なさや孫達の不良化一歩手前が見てとれるのである。

 この亡くなった妻が夫コワルスキーに懺悔させて欲しいと、町の教会区の牧師であったヤノビッチ神父(クリストファー・カーリー)に依頼していたことから何かにつけコワルスキーを訪ねて来た。
 朝鮮戦争で地獄を経験したコワルスキーが不可知論者になるのは必然だったのかもしれない。

 コワルスキーは神父に
 「神学校出立てのガキみたいな童貞神父が、爺さん婆さん達の手を取り永遠を約束したりしてるのをみると胸糞が悪くなる」
 なんて毒づいたりするのが常であった。

 そんな折、息子達も含め誰かれもトヨタ車が席巻し周辺には東洋人などの居住が多くなり隣にもラオスから来たモン族一家が越してきたのである。
 しばらくしてこの地域一帯で乱暴・狼藉をはたらく東洋系チンピラギャング一味が隣家の長男タオ(ビー・ヴァン)に接近し、コワルスキーのグラン・トリノを盗み出すよう誘惑する。
 タオが夜、密かに車庫に忍び込むと異変に気付いたコワルスキーに銃で追い出される始末。
 翌日、タオは謝罪に訪問し、コワルスキーからは代わりに向かいの荒れ果てた空き家の補修を下命される。
 タオが本心で反省し一生懸命に汗を流すのを見てコワルスキーの心も和らいでいく。

 物語の根底には人種差別問題が静かに流れているが、タオと姉スーとの交流がシリアスなものから交友に代わり、やがて彼らへの親交・情愛に代わっていく展開の描き方は実に上手い。

 ところで彼はかなり前から咳と共に吐血していて患者も医者も東洋人の町の病院からは深刻な精密検査結果が出ていたのだ。
 流石にそんな時は孤独と寂しさのあまり長男の所に電話を掛けたりするが、「今忙しいからまたにして」などと言われたりする。
 まるで「生きる」の志村喬だ。

 それでもタバコとビールは辞めない頑固一徹で偏屈なコワルスキーであったが、味気ない親戚一党達よりも何やら謎めいた儀式をする一家ではあったが一生懸命で家族思いの隣人達に惹かれていくようになる。
 そして遂にはタオやスーを恫喝・蹂躙する東洋系ギャング達と対峙することになる。
 
 ある日、スーがギャング達に暴行・凌辱され瀕死の状態で帰って来た。
 流石に怒りが爆発したコワルスキーは復讐に燃えていたタオに今は冷静になるよう諭す。

 そしてコワルスキーはある決意をする。

 彼はタオを地下室に閉じ込め、いつも側で懐いていた犬のデイジーを隣の婆さんに預け夜半にギャングのアジトへたった一人で出かけていくが‥。

 彼の手には第一騎兵師団のジッポのライターが握られていた。

 彼にはどう生きるかの答えは見つかっていたが、どう死ぬかの答えを探していたのかもしれない。

 コワルスキーの葬儀が終わり親戚一党の元で遺言が読まれるが期待のまなこで身を乗り出した遺族の期待をよそに不動産は教会へ寄付され、「グラン・トリノ」はタオに遺されたのだった。

 
 エンディングは湖岸をタオとデイジーの乗ったグラン・トリノが穏やかな揺蕩うような音楽にのせて走り去る。
 哀感を伴った安堵感が醸し出されていて印象深い。

 燃費も悪い、図体の大きいグラン・トリノに正に頑固一徹のコワルスキーそのものが投影されており、グラン・トリノを駆って走り去るタオは亡くなったコワルスキーの生き様を下敷きにし、彼を標榜し、彼に見守られながら生きていくんだろうななんて思わせて目頭が熱くなる。

 金を掛けていなくても人の琴線に触れて熱くさせてくれる沁み入るような映画は創れるのである。