Jeffrey

夏の妹のJeffreyのレビュー・感想・評価

夏の妹(1972年製作の映画)
2.5
「夏の妹」

冒頭、ここは美しい海が見える沖縄の夏。返還された日本国。そこに父の愛人と娘が船から降り立つ。兄を求め捜索、手紙、再会、告白、目撃、浜辺、現地語。今、一夏の思想漲る憎悪が写される…本作は大島渚が昭和四十七年にATGで監督した彼のアートシアターギルド最後の作品かつ創造社を解散して、国際的な舞台に立ち始めることになる。この度DVDを購入して久々に鑑賞したが面白い。音楽も撮影も、脚本もスタッフそれぞれ大島渚と関わり合ってきた方々が集まり、沖縄返還時の日本國沖縄県を舞台にした青春愛憎作品である。本作はAmazon Primeに配信されているので、気になった方は見てみてはいかがだろうか。

日本本土と沖縄の愛憎溢れる複雑な関係性を青春映画風に描いたメロドラマで、全編ロケーションをした異色作で、すれ違いのメロドラマの骨法を取り入れた物語は、随所に観光名所を織り込んで、青春映画風に仕上げた彼の渾身のー本であることは間違いない。そして本作で映画デビューした栗田ひろみは美しい。その他にもシンガーソングライターで女優としての活躍も著しいりりぃが出演している。そして大島組常連の俳優が脇を固める。これぞ大島ギルド作品最後の清新な青春映画である。


さて、物語はとある夏休みが始まる。スータンことを菊池素直子は、父の婚約者でピアノの家庭教師でもある小藤桃子と一緒にいて船で沖縄にやってきた。素直子はを大村鶴男と言う沖縄の青年から手紙をもらい、その手紙によると、鶴男は母から死んだと思っていた父が生きていて、素直子の父菊池浩佑が父であるらしいと聞かされたので、自分たちが兄妹である可能性があると言うのである。そして夏休みには沖縄へ遊びに来て欲しい、と結んであったので、沖縄を訪れたのだ。二人は、船中で桜田拓三と言う老人と知り合った。彼はかつて戦争中の沖縄での出来事に責任を感じているらしく、沖縄に対して深い憧憬と強い罪の意識の念を抱き、誰かに自分を殺してほしいと願い、その相手を探して沖縄を訪れたのだった。

船を降りた彼女たちは、港で観光客に沖縄語を教えて金を稼ぐギター流しの若者と知り合う。実は、彼こそが素直子に手紙をよこした大村鶴男なのだが、二人はお互いにそのことに気づかな。彼は妹を探して菊池家をこっそり訪れた時、庭先で見かけた桃子を妹と勘違いしているのだった。鶴男の勘違いを知る桃子は、密かに鶴男の母であるツルに会い、その勘違いを伝え、素直子に会わせないようにしてくれと頼む。一方、素直子は盛り場でギターの流しをする鶴男と再会してお互いに兄妹と知らないまま心を通わせていく。翌日、彼女は島唄の歌い手である照屋林徳とであった。照屋は殺す価値のある日本人を探していると言う。鶴男の行方を探して警察を訪れた素直子は、国吉真幸という警官に声をかけられる。国吉は彼女に自分も父親である可能性があると言う。国吉は京都での大学時代、恋人であったツルを友人の菊池浩佑に妹として紹介した。浩佑は国吉が学生運動で入獄中にツルと関係したのだった。

素直子を演じる桃子は、鶴男の呼び出しにー人出かけて鶴男に会うが、人違いであることを言い出せないまま、次第に彼に惹かれていく。ちょうどその頃、素直子と桃子を追って浩佑がやってきた。彼は久々に国吉と再会した。国吉は彼に照屋を紹介する。そこにツル、少し遅れて桃子がやってきて、その席で浩佑、国吉、ツルの複雑な関係が語られる。やがて素直子と桜田がその場にやってきて合流する。殺されたい男、桜田と殺したい男、照屋が対峙し、盃を傾け、一同は照屋の奏でる島唄に耳を傾ける。翌朝、浩佑、素直子、桃子の三人は沖合に釣りに出かける。そこで桃子は鶴男の勘違いの顛末を話す。浩佑は桃子に鶴男を呼んでくるように頼む。鶴男にあった桃子は、次男に求められるまま、草むらで体を重ねる。その様子を遠くから覗き見ていた素直子は激しく傷つき、".チキショー!沖縄なんか日本に帰ってこなきゃ良かったんだ"と叫ぶ。

日差しの強い浜辺に旧世代の男女が会している。猥談を交えながら思い出を語る大人たちの所へ素直子がやってくる。これを契機にして、複雑な人間関係の底に横たわる日本と沖縄の戦中、戦後史を貫く彼らの愛憎と怨念が激しく葛藤する。桃子が鶴男を伴ってやってきて、そこに加わる。そこで素直子は初めて鶴男の正体を知る。なじる素直子に、このような複雑な人間関係になった顛末を話して聞かせるが、ツルは鶴男の本当の父親が誰であるのか答えず、艶然と笑うだけだった。素直子の夏が終わろうとしていた。彼女は鶴男に別れを告げる。翌日、浩佑と桃子が一足先に帰京する。素直子も帰京すべく鶴男に別れを告げる。船中から彼女は一艘の小舟に乗っている桜田と照屋を見た。やがて、どちらが、どちらを突き落としたかわからないが、一人が海に沈んでしまった。後には沖縄の海が広がっていた…とがっつり話すとこんな感じで、腐っても大島渚、自分の思想を貫き守り通す日本憎しを描くのである。

いゃ〜、日本に沖縄なんて帰ってこなきゃよかったんだと主人公の女性がセリフで言う場面や、殺しがいのある日本人を探しているなど相変わらずの大島渚の色が前面に出たアートシアターギルド最後の作品であった。正直沖縄の風景や海は綺麗だが、物語自体は退屈である。というのも、この作品の前作が彼の大傑作「儀式」だった分、少し拍子抜けした感じはある。それに儀式のようなあの砂浜での葛藤は変な空気感がある。三人の若者にまつわるストーリーが全てであるこの作品は、沖縄の美しい風景が全てを語ると言う感じで描かれている。今改めて観ると、武満徹の音楽でこんなに居心地の良い美しい南国風のメロディーを奏でる作品もなかなかないだろう。武満徹=不気味でおぞましい音響が脳裏に浮かぶのだが、本作は美しいメロドラマに合うような音楽を作ってくれている。でも小舟が現れる瞬間、手紙を読む場面はほんの少し不気味な音楽が流れるけど。にしても、相変わらず大島節が炸裂している。沖縄語、沖縄人とまるで日本の本土とはまるで違う国と民族と分けたかのような演出が見て取れる。浜辺で全員が集合して語る場面はなんとも凄い画である。てか、りりぃの声質イカツイ(褒めてる)な。

それと入浴場面で彼女がヌードを披露するのにはびっくりした。あんなことするんだねと、当時彼女ってまだ十代だったよな?そう考えると結構体当たりだなと思う。相手役の石橋がちゃんとリードしたとは思われるが、それにしても大島渚の作品で十六ミリフィルムで撮影されたのって後にも先にも本作位なんじゃないかな、しかも手持ちカメラで役者を追いかける演出なんて珍しい。それとあの大量の汗を見ると、当時の沖縄の気温がどれほど高かったか想像を絶する。そういえばりりぃは「パラダイスビュー」で、確かまた沖縄を訪れているような気がする…というかそう言うテーマだったような(あやふや)。

ところで、主人公の素直子の名前は素直な子を意味してるのか?こんな珍しい名前はなかなかないだろうし、素直な若者たちがこの日本と言う閉寒している土地に閉じ込められていると言うのを描きたかったんじゃないかなと個人的には思う。何よりも「夏の妹」と言う映画は、本土と沖縄の関係を男と女にして捉えている事は一目瞭然だろう。大島渚は映画作家としては一目置くほど作家性に溢れた人だとは思うが、どうしても日本のことになると理性がなくなってしまうところがある。この作品メロドラマとして作られていると本人も言っているが、戦中世代の悔恨を背負って登場する(殿山泰司演じる男)人が出てきたら我々観客が求めるような青春メロドラマにはならないだろう。大島と同じ色を持つ人物たちが見るなら良いのかもしれないが、ほとんどの人は違うだろうし、そこら辺が残念である。まぁATGの暗い部分が出てるなと…。

それに今のアメリカではないが、大島と言う人間は日本を分断しようと映画でしているようにも感じてならない。それは本作を見てもわかるように、日本人はあまりにも沖縄を知らず、沖縄人はあまりにも日本を知らないと言わんばかりの構造である。今では分断政策に使われてしまった哀れな言葉としてウチナンチュー(沖縄の人と言う意味)と言う沖縄の語源があるが、そういったある活動形には便利な言葉として使われてしまっていて非常に残念であるし、数年前の芥川賞だったか直木賞でも沖縄舞台にした小説(タイトルは覚えていない)が受賞したように、そういった偏りのイデオロギー性が溢れた書籍や映画が受賞するのもなんだかなぁ…と思うのである。それに他の登場人物も宿怨を抱いて出てくる始末である。あまりにも大島渚と言う人物は、一つに偏り理性を失い映画を作ってしまう節がある。彼の映画を見ると、日本でよくここまで頑張って生きてきたなと思ってしまう。辛かっただろうと(笑)。

しかも大島渚は自分の口から沖縄の本土復帰と言う事は、第二次大戦後の日本が初めて植民地を持ったと言うことなのだと私は考えるとかわけわかんないことまで言い出してるし、本当に凄い人物である。お茶の間ではバカヤローと言う言葉で人気だった映画作家、評論家の立場で様々な人気テレビ番組(朝生)に出演していたことがあるが、ここまで偏った思想を持つ人をテレビ(公共の電波を使って)に出すのもいかがだろうと思っていた人は数多くいたと思う。大島からすれば沖縄は日本の植民地だそうだ。そんでここ最近では北海道のアイヌ人(ウポポイ)などの分断工作が始まっているようだが、果たしてどうなるやら…。アイヌ人の文化をここで話すと長たらしくなるので話さないが、縄文人(津軽人)といったDNAの話まで遡らないと話は平行線のままだろう。それにこの作品の人たち(戸浦や佐藤、小山ら演じる沖縄人)が着ている服も白装束である様な見た目(沖縄の民族衣装なんだろうが?)からまるで、日本に沖縄が返還されたことにより死人同然になったと言わんばかりの演出だと個人的に思うのである。あくまでも個人的にだが、あの連なって語る場面とか見てみると、まるで死人が話してるかのような感覚に陥るのだ。

つくづく沖縄に関してのこういった政治色にあふれる作品を見ると、天皇制と国体の延命を図ったかのような事柄で描かれていて胸糞が悪い。捨て石、植民地主義的な同化政策、この世の地獄を集めたとまで言わせた沖縄戦争、皇民化=同化、沖縄語を使ったものはスパイ、日本兵によって多くの沖縄住民が虐殺された…などとにもかくにもこういったものがずらりと陳列された作品が多い。要するに沖縄は都合の良いように利用されてきたと映画を通して国民に言いたいのだろう。ネタバレになるため話せないが、この作品にはまるで日本本土が沖縄県を犯したかのような国を人間に見立てた相姦(疑似兄妹相姦)と言うセクシャルな演出もなされている。それに殿山泰司演じる桜田の桜は「儀式」の祖父の名前も桜がつくが、日本の象徴を示す桜=天皇を表している事についてもこの作品には桜田と言う人物が戦争責任に対して深く罪の意識があると言うセリフがあるように、桜田=天皇陛下に対して天皇はアジアに対しての責任があると言わんばかりである。

それにしてもいつまで続くのだろう、琉球人は日本人とは異種の語源や文化を持つまさしく異民族であり、琉球人民共和国として独立すべきであると言う主張や沖縄、断じて日本ではないと呟く者たちとの論戦は…。余談だが、儀式の次に作られた本作の当初のタイトルは夏の祭りと言う感じだったような気がするのだが、いかにして「夏の妹」に変わったのだろうか、すごく知りたいものだ。「儀式」から祭りへと変わっていく様子を描きたかったのだろう沖縄を舞台にして。この作品も大島の比喩が並べられた映画であった。米国とのハーフであるりりぃを起用したのは謎めいた雰囲気(米軍に占領されている沖縄)を出すためだと思うが、当初主演の一人である鶴男を役にはフォークシンガーの吉田拓郎を希望していたそうだが、結局のところ歌手をやっていた石橋正次になった事柄は何だったんだろうか、気になる。

最後になるが、この「夏の妹」の批判を繰り返した竹中や映画完成と同時期に石堂が"我が敵、大島渚"と題した実名小説を発表したり、プロデューサーの山口が「夏の妹」の前に創造社を去った経緯があるのは、大島渚のイデオロギー的暴走に耐えられなかったのだろうか、長年脚本家として大島渚とともにやってきた田村の退社を機に創造社解散を決意することにもなっているし。しかしながらその後に撮った作品は日本國以上に海外での評価を得たものばかりだった。イデオロギーに支配されていたATG映画からポルノ映画ならぬ官能的な帝国へと彼は移転したのだ。それが「愛のコリーダ」である。しかしながら「戦場のメリークリスマス」でまた過去へと(日本軍、戦争関係)移転してしまうのが大島渚だ。しかしながら彼のフィルモグラフィの中でも圧倒的に少ない時代劇へと再度移転し、命尽きるまでこの作品が彼の生涯最後の映画である…それが「御法度」で国内では大ヒットした作品である。

長々とレビューしたが、大島渚の作品でアイドルを起用した作品てこれだけなんじゃないだろうか、ただ俺が知らないだけで他にもアイドルとされている人(デビッド・ボウイがアイドルと言うならば、彼もそうだろう(笑))がもしかしたら出演、主演をしていたかもしれない。しかし今回一気に彼の作品を全て見返したところ、そういった人物はいなかったと思う。栗田ひろみの可愛らしい容姿は、男性週刊誌のカバーガールに起用されるほどであった。んで「放課後」と言う作品から彼女は幅広く活躍することになった事は周知の通りだろう。彼女は後に「沖縄十年後戦争」にも出ていたな。
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