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祇園囃子のkuuのレビュー・感想・評価

祇園囃子(1953年製作の映画)
3.8
『祇園囃子』
製作年 1953年。上映時間 84分。
日本が世界に誇る映画監督・溝口健二が京都の花街・祇園を舞台に芸妓とそれを取り巻く人々の生態を細部まで徹底的に描き出した人間ドラマの傑作。

祇園ではちょっと名の知れた芸妓・美代春の許に、母を亡くしたばかりの少女・栄子が舞妓志願にやってきた。
栄子の熱意に負けた美代春は、彼女を引き受けることに。
やがて、1年間の舞妓修行を経て、初めて店に出た栄子。
ほどなく大会社の御曹司・楠田に見初められる。一方、美代春も楠田の取引先である神崎から言い寄られるのだったが。。。

芸妓さんの世界は方便(忌憚なくいうなら『嘘』目的のために利用する便宜的な手だて)の世界であり、幻想を売っている世界である。
現代ではキャバクラと云うよりも気軽には行けない高級クラブってとこかな。
映画の冒頭で美代春(木暮実千代)が云うように、『芸者の嘘は嘘にならへんの』が物語ってる。
戦後間もない日本の芸者生活を描いた決定的な作品であり、日本を代表する舞踊や音曲・鳴物で宴席に興を添え、客をもてなす女性を映画的に表現した善き洞察に満ちた作品の一つであると思う。
祇園ではないが、小生は花街で育ち、また、祇園宮川町にあるお茶屋の舞妓と色恋をした経験から感じます(彼女が芸妓道を真剣に目指しはじめ別れましたが)。
今作品は84分ちゅう比較的短い作品で、全編祇園と京都の中だけで構成されてる。
洟垂れ小僧のとき、祇園はよく遊んだ所なので、多少変わってはいるが大体町並みは特定できるし、あと大映京都撮影所かな撮影は。
ただ、東京のアパートで撮影された1シーンを除いてはやけど。
今作品には、溝口監督が好んで使う長回しやノーカット撮影がふんだんに盛り込まれており、小津監督と共に邦画の善き時代を垣間見ることができる。
しかし、今作品では芸者が白塗りをしている姿は見られない。
ただ、肩や首に化粧をしている姿は見られ髪の毛は綺麗に結っている。
これは『夜鷹』という姿で、都をどり期間中、芸妓も舞妓も同様に地毛で髪を結います。
そこで舞妓との区別をつけるために、芸妓は首周りだけを残してあとの白粉は落とし普通のお化粧をします。
モノクロ撮影やし、女優さんが色白で美しいし、白塗りしてるようにも見えなくはない。
溝口監督の前作『祇園の姉妹』の緩やかなリメイクと考えられているこの作品は、同じ屋根の下で暮らす一組の芸妓が、個人的に困難な状況に遭遇する様子を描いている。
両作品とも、二人は姉妹関係(前作の二人は実の姉妹)にあり、年上の芸者は伝統的で、年下の芸者はそうでもないが、結局は体制に反抗することになる。
それ以外は、両作品とも独自の道を歩んでおり、今作品の2人の女性は、生き残るために男性からの性的誘惑を断とうと苦闘している。
芸妓は性を売る商売(強制的も含め)なのか、あるいはそうであったことがあるのか、という疑問が生じる。
公式の答えはノー。
しかし、芸者が過去に何回性行為をしたのか、『芸者』のように不文律とはいえ、性行為を期待された時期があったのか明確な答えは出てきません。
最近、『元舞妓が京都花街の闇を暴露し炎上!16歳で飲酒、客と混浴。。。』何てのを目にしたが、それはお茶屋のババアの考えと本人の意識が大きいやろなぁとは思います。
デリヘルでもプライベートは身持ちが固い女子も沢山いるし、逆に高級クラブでもガードが低い女子もいる。
要は客の野郎どもの質によるものが大きいかと。
ただ、強要してる店があるのも京都に暮らしてたらよく聞く話しやけど。。。
まぁ伝聞やしあてにはならないし、小生は個人的にはあまりある話ではないと思いたい。
今作品の重要なシーンのひとつに、芸妓みならいの若い舞妓である若尾文子演じる栄子(舞妓・美代栄)が、芸者衆のオカアサン(お茶屋の女将)である浪花千栄子演じる お君から、マッカーサー憲法の下で自分に与えられた権利について説明を受けるシーンがある。
栄子は、客が自分を押しつけるのは権利の侵害になるのかと問うが、お君はその質問をはぐらかし、やむなく『原則的にはそう』と答える。
しかし、その答えは明らかに逆で、この腐敗の文化は、彼女たちが芸妓の世界で上り詰めるために、嫌なことに従事しなければならないお茶屋のオカアサンによって可能にされている。
今作品は1950年代初頭の職業を正確に描写しているのか。
そして、それは何らかの影響を与えたのか。
また、芸妓は、『噂の女』(1954年)や『赤線地帯』(1956年)を含む、春を売る人に焦点を当てた溝口作品の後期三部作の一部とみなすことができるんかとかふと思う。
戦後生まれの栄子は、フランク・セルピコ(ニューヨーク市警に蔓延する汚職や腐敗に立ち向かう警察官の実話に基づいた作品の主人公)のような存在で、正義の道を歩むことを決意している。
栄子は、年上の反抗的な木暮実千代が演じる芸妓・美代春と同じ屋根の下で暮らしている。
2人の間には世代間のギャップがあり、栄子の硬さは美代春の繊細さと対をなすものです。
木暮実千代は気品を放ち、優しい性格で、年上の芸妓として弱さを身振りで表現する能力を持っているって感じたかな。
この二人は、女性への暴行を厭わない野郎たち、栄子に寝ることを要求する叔父、栄子のダメな父親、前述のお茶屋のオカアサンなど、道徳的に破綻した人物ばかりの映画の中で、唯一、品位と美徳を備えた人物と云える。
さらに、二人の関係もこの映画の魅力の一つでした。
二人の間には愛情があり、美代春は栄子にとって母親のような存在になる。
栄子は美代春自身の失われた青春と無垢な心を象徴するようになり、彼女はそれをますます保護するようになる。
このことは、栄子が実際に顧客と寝るという見通しに対する彼女の明確な不安と動揺に反映されており、曖昧ではあるが、美代春が栄子に惹かれているという示唆もある。
また、美代春は、何年も芸者をしているにもかかわらず、登場するどの男性とも肉体関係を持つことを嫌がり、パトロンもいないことが示されている。
ラストシーンでは、美代春の栄子に対する気持ちが母性を超えて、英子のパトロンになりたいとまで云っていることがわかるけど、芸妓のパトロンは恋人でもあると映画の中で宣言されている。
結局、この関係が同性愛なのかプラトニックな愛なのかは、解釈の問題であるんやけど。。。
今作品の最も重要なシーンは、東京のアパートを舞台にしたもので、河津清三郎演じる楠田(車両会社の専務)ちゅう男の誘いに抵抗した栄子が、抵抗のあまり彼にひどい怪我を負わせるシーンで、この事件により、2人の芸者は仲間はずれにされ、仕事も見つからなくなったばかりか、知らぬ間に企業と国との間の8000万円の取引に関する手先になっていた。
二人の芸歴を回復し、借金を返済するためには、美代春がパトロンになってくれるという男、小柴幹治演じる神崎(役所の課長)と寝るしかない。
特に、男が目を閉じてくださいと不安げに美代春に云う。
その代わり、君の未来は僕が保証するよと。
映画の冒頭、栄子が迷路のような道を進んで美代春の家を探すシーンから、祇園そのものが、彼女たちがこの迷宮を抜ける出口がないことのメタファーと見ることができる。
若い芸妓衆は日本の美を象徴する生きた芸術品なんて云われるが、冒頭で美代春が云うように、『芸者の嘘は嘘にはならへんの。お商売の駆引きや。お客さんの話に相打ち打って、面白う遊ばせてんのがわからへんのか』が実際のとこやろなぁ。
でもまぁ今作品は個人的には善き作品でした。

余談ながら今作品を見てふと思い出したのは、ガキの頃よく食べた、坊やも知ってる西村のエイセイボーロのCMを思い出す。
(関西だけのCMかも知れませんが)
セリフが面白くて。。。
舞妓1
『きゃーっ!おかあさんに、ゆうえ~っ(言いますよ)』
舞妓さん2
『うち、そんなん知りまへんやん』(ここ聞き取りにくい)
お茶屋のおかあさん
『あんたら何してはんの? 
二人で、はよこれお呼ばれやす』
舞妓さん 1・ 2『おおきに~ぃ、おかあさん』
舞妓さん 1『いやっ。西村の衛生ボーロやわ 』
舞妓さん 2 『 うち大好きどすねん 』
ってモノで、株式会社 西村衛生ボーロ本舗が公式ホームページにYouTubeにて当時のCMを公開してます。
せやし、これは許可を求めなくても添付して良いかなぁと判断しましたし載しときます。
(叱られましたら消しますので🙇)

https://youtu.be/TkO_dKybaFY
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