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砂の器のkuuのレビュー・感想・評価

砂の器(1974年製作の映画)
3.9
『砂の器』
製作年 1974年。上映時間 143分。
原作は、 松本清張の長編推理小説。
1960年5月 17日から1961年4月20日にかけて 『読売新聞』夕刊に全337回連載された。
『張込み』 『ゼロの焦点』の映画化で松本清張から高い評価を得ていた橋本忍、野村芳太郎のコンビに、脚本として山田洋次が加わり、原作には 『親子の浮浪者が日本中をあちこち遍路する』 としか書かれていないエピソードを、『父と子の旅』として繰り広げた渾身の脚本が出来上がった。
ドラマの後半は交響曲 『宿命』 と日本の四季 折々の風景をバックに、 事件の謎解きととも に、 父と子の逃れられない宿命の絆が浮き彫り にされていき、観客の涙腺を刺激する。
豪華キ ャストもそれぞれ柄に合った好演をみせている。

ある日、国鉄蒲田操車場構内で扼殺死体が発見された。 
被害者の身許が分らず、捜査は難航した。
が、事件を担当した警視庁刑事・今西と西蒲田署刑事・吉村は地道な聞き込みの結果、事件前夜、被害者と酒を飲んでいた若い男の存在に行き当たる。
今西と吉村の2人は東北なまりの“カメダ”という言葉を数少ない手掛かりに、男の行方を追う。
しかし2人の執念の捜査もなかなか実を結ばず、犯人へと繋がる有力な情報は得られない日々が続いた。
いよいよ迷宮入りかと思われたとき、小さな新聞記事がきっかけとなって、捜査は急展開を見せ始めた。。。
 
今作品はもう古典の部類に入れてもよい映画であり、日本の文化に富んでいる善き作品でした。
今作品は、表面的にはサスペンス殺人物語ですが、運命というテーマを探求し、観てる側を松本清張節の概念に引き込みます。
また、今作品には皮肉が込められている。
今作品は東北の小さな町で始まる。
しかし、すぐに殺人事件の手がかりに焦点が移り、今西栄太郎と吉村弘の刑事(丹波哲郎と森田健作)が本州中を駆け巡り、さらなる詳細を探っていく。
我々は、彼らと一緒に美しい日本の田舎を旅し、夏の暑さの中で彼らのおもてなしを体験する旅に出れる。
ちなみに、丹波哲郎は、霊界の話をするよりも、袖をまくって仕事の方がとても似合ってたしシブかった。
殺人の被害者である三木謙一(緒方拳)は、村のみんなから慕われている元亀嵩駐在所巡査で、生涯まっとうな行いしかしてこなかった。
誰も彼に敵がいるとは思っていなかったが、彼は殺され、その死体は東京に捨てられていた 今西刑事が三木の同僚や友人に話を聞くと、火事から子供を助け、病人を病院へ運び、息子を看病しながら病気の乞食を病院へ送るなど、日本の有名な詩人・ヒューマニスト・教師の宮沢賢治が生きているように見える。
脚本家の橋本忍と山田洋次は、宮沢賢治のヒューマニズムに敬意を表して、この愛すべき警官に、賢治という文豪と同じような思いやりのある性格の名前をつけたんちゃうかな。
作中、登場人物の一人が、運命とは『生まれてくること、生きていること』と定義していることは、あまり多くを語る必要はないかな。
これはポジティブにもネガティブにも解釈できる。
つまり、今この瞬間を楽しみ、生きていることに感謝すること、すなわち運命を受け入れること、あるいは、生まれた以上、何が何でも生きて先に進むために努力しなければならない、ちゅうことかな。
いずれにせよ、我々の人生、あるいは我々が積み上げてきたものは、砂上の楼閣のように、一時は立派に見えても、いずれは崩れて流されてしまうもの。
したがって、我々の運命はすでに決まっているのなら、すべての努力は無駄となる。
権力、名声、富、愛など、我々が望むものはすべてなくなってしまう。
これは極めて仏教的な考え方であるかな。
皮肉なのは、刑事たちの親切なもてなしと、ハンセン病患者の親子が物乞いをしながら各地を歩き回り、田舎者に嘲笑されたことの対比である。
もうひとつの皮肉は、映画の後半、雪景色、桜の下、海辺、山間部など美しい日本の田園風景が、放浪する親子を前景にして描かれたこと。
台詞は必要ない。
しかし、情熱的なピアノ協奏曲は、彼らの悲しみ、孤独、見捨てられ、強い絆を鮮やかに描き出していた。
そこに、新進気鋭の作曲家・和賀 英良(加藤剛)が過去を痛烈に振り返りながら演奏する姿が見事に重なってました。
とても良質な作品でした。
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