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デッドマンのkuuのレビュー・感想・評価

デッドマン(1995年製作の映画)
3.9
『デッドマン』映倫区分PG12
原題Dead Man.
製作年1995年。上映時間121分。

ジム・ジャームッシュ監督がジョニー・デップを主演に迎えて描いたウェスタン米国映画。

19世紀米国西部の町マシーンにやってきた会計士ウィリアム・ブレイク。
そこで、街の有力者の息子と花売りの娘の喧嘩に巻き込まれ、胸に銃弾を受けたブレイクは、殺人の濡れ衣を着せられ、そのまま追われる身となる。追っ手から逃げる山の中でネイティブアメリカンのノーバディと出会ったブレイクは、次々と襲いかかる敵をノーバディとともに打ち負かしていくが。。。

ジム・ジャームッシュにとって唯一の西部劇。

西部劇ちゅう米国映画の伝統的ジャンルをジャームッシュは、あらゆるメッセージをメタファーとして伝えるのにふさわしい物語形式であると考え、彼の本来的な持ち味であるクラシカルモダンな雰囲気を存分に打ちだしながら、一人の男の不可思議な運命を描いているかな。
シナリオ執筆に取りかかる前、ジャームッシュは、ネイティブアメリカンの研究書を意欲的に読み耽り、その思想が詩人のウィリアム・ブレイクが提唱する概念に通じるものであっことを感じたと云う。
実際、本作品にはブレイクの詩の言葉がいくつか引用されてる。
今作品でそれを象徴する存在となっているのが"ノー バディ”。
異なる文化を持つ、しかもその文化圏のなかでは異端的な扱いを受ける者同士の接触というモチーフは、 ジャームッシュの得意とするところなんかな。
本作品におけるブレイクと"ノーバディ”の交流は、文化的なフュージョンと同時に、スピリチュアルな意味を持っている。
"ノーバディ”はウィリアム・ブレイクちゅう名を聞き、 彼のことを同じ名前を持つイギリスの高名な詩人であると思い込む。
それもただの勘違いじゃなく、 彼はかの詩人が何らかの理由で、一度失った肉体を取り戻したと考える。
ブレイクにとって、ノーバディ”との旅は、 肉体的世界から精神的世界へのイニシエーション(通過儀礼)を意味してるんやろな。
そこじゃ、肉体的な死てのは、生命の円環の一段階にすぎず、むしろ肉体を捨て去ることによって、人は次の世界へと旅立つことができる。
ジャームッシュは、
『物理的な生命が、寓意的にひとつの旅として 捉えられているんだ。僕が欲しかったのは、このシン ブルな物語と、それから異なる文化から来たふたりの 男の関係だ。ふたりとも独りぼっちで、道に迷ってい て、ともかくも自分たちの文化から完全にはみ出して しまっている。これこそ僕にとってはこの映画の物語 であり、対象なんだ。』
と映画雑誌で語ってる。
本作品じゃ、ところどころでフェードアウトが用いられてるが、それはハリウッド黄金期における西部劇によく見かけたテクへのオマージュという意味以上に、まさしくブレイクの意識が、ある段階から次の段階へと移行しつつあることを示していると思う。
その手のテクは映画のラストにおいて、文字どおり肉体的世界からの跳躍を暗示する役割を果たすはず。
また、映像と呼応する形で、ニール・ヤングによるギターサウンドが素晴らしい効果を発揮しているが、 これらはすべてヤングがスタジオでラッシュフィルムを観ながら、その場で即興演奏したものを使用したそうです。
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