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白い恐怖のkuuのレビュー・感想・評価

白い恐怖(1945年製作の映画)
3.6
『白い恐怖』
原題Spellbound.
製作年1945年。上映時間111分。

アルフレッド・ヒッチコックが『汚名』(46)に先立って監督した1945年度アメリカンスリラー映画。
アルフレッド・ヒッチコックが心理学者を演じてまーす。

フランシス・ビーディングの原作を『汚名』と同じくベン・ヘクトが脚色した。
撮影は『船乗りシンバッドの冒険』のジョージ・バーンズ、
音楽はこの作品でオスカーを得たミクロス・ローザ担当。
夢の場面装置はシュール・レアリスト、サルヴァドル・ダリ。ダリぃ!!精神分析を扱った最初のハリウッド映画の1つで夢と来たらダリやな。
主演はイングリッド・バーグマンとグレゴリイ・ペックで、ロンダ・フレミング、レオ・G・キャロル、老優マイケル・チェホフ、ヴィクター・キリアン、ビル・グッドウィンらが助演する。
白黒映画ですが、カメラを向けたまま銃声が消える2つのフレームが赤く染まってるんは粋やなぁ。

新しく病院にやってきたバランタインという医師は、白地に縞の模様を見ると発作を起こすという奇癖を持っていた。
やがて、彼の代わりに来るはずだったエドワーズ博士が、行方不明になるという事件が起こる。
バランタインが疑惑の渦中に立たされる中、病院の女医コンスタンスだけは彼の無罪を信じ、発作の原因を追究するが。。。

オードリー・ヘプバーンが個性的な美しさなら、
ラナ・ターナーは妖艶な美しさ。
クラウディア・カルディナーレがキュートな美しさなら、
清楚な美しさはイングリッド・バーグマンか、グレース・ケリーか決めかねぬ。
邦画なら原節子が加わり三つ巴。
んで、昨日昼に今作品を見た。
イングリッド・バーグマンはほんと美しい(175cmもあったそうです)。

今作品じゃ精神分析は何度も登場したけど、現在とくらべ確かに初期の頃は、ハリウッドがそれほど価値のあるものを達成することはほとんどないかも知れない。
フィルム・ノワールは、この世界に出入りする一般的なジャンルやけど、そこでも多くのことが禁じられており、精神医学のとらえどころのない実践と説明は、永遠に説明的な言葉を探し求めてるだけで、ほとんどの場合、ばかげていて一般的ではないものになってる。
ヒッチコックや作家のベン・ヘクトのような巨匠がいたとしても、それは説明文を必要とする学問であり、短いシーンや映画全体で信じるにはあまりにも深すぎるものかもしれない。
『罪悪感コンプレックス』のような絶望的に時代遅れなものは、ここで何度も使われている言葉やけど、心の複雑さやプロットとの関係を説明するにはあまりにも単純かな。
夢の分析も、信じられなくなるほどの作為的なもので、物語が展開するためのステップやパスとして、すべてを適合させ、機能させようと真剣に取り組んでいるが、無理があり、持続させるには無理がある。
せや、この作品には面白さが十分にあり、当時の多くの映画とは全く異なるものであり、確信と自信を持ってフレームに収められ、多くの芸術的で奇抜なタッチを見せてました。
注目を集めたダリのシークエンスは当時、他に類を見ないものやったと思います。
また、刺激的な音楽、魅力的な俳優たち、楽しみながらチェックリストを作成できるほどの性的な象徴性もあります。
全体的に見て、この作品は楽しいエンタメ作品であり、製作者たち全員の努力が目を見張るものがあり、ヒッチコック映画が他の作品とは異なる理由を示す例となってんのとちゃうかな。
今作品の心理学的アプローチや、強い、てか心理学て、誰かのためじゃなく、何かのためでもない。
加え、今作品についての一般的教養を高めるためじゃないけど、四方山噺とホンマでっかほどで書きますが。
映画に対しては、ど・素人ながら僭越ながら、思うに映画に大切なのは、その先であり、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的にするのも一興かと思い時には鑑賞してます。
一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は、己のドタマ(頭脳)が何も考えていないのを隠すためのアリバイでしかない。
映画の知識、哲学・精神分析的概念、は考えるという行為を研ぎ澄ますためのツールでしかなく、そのツールが目的なんじゃない。
どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があったとしても、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えることがなきゃ、その時、映画は自分に対して真に現れている。
この出会いをもっと味わうべきかな。
最近はそんなことを忘れつつ鑑賞してたし、『 白い恐怖 』は勉強になった。
今作品は、もう75年以上前に公開され、
精神分析、
夢の場面におけるサルバドール・ダリの美術協力、
等々の視点で語られる事が多かった。『 白い恐怖 』ちゅう邦題もそのような見方に拍車をかけて巧いタイトルかと思う。  
しかし、邦題とは全く違う原題の『Spellbound 』
を考えるに映画を観たあと振りかえると改めて魅了された。
映画を冒頭から素直に観れば、これは コンスタンスが素性の怪しいジョン・バランタインに魅了される、つまり、一目惚れするという話であることが分かる。 
実はジョン・バランタインはある事件で記憶喪失となり、精神病院を退任するマーチソン院長の後任となるエドワード博士に成り代わって訪れていた。
彼がエドワード本人じゃないことにコンスタンスは気付く。
記憶を不確かに思い出すジョン。 
自分がエドワードを殺したと打ち明ける。
ここで重要なんは、ジョンという男がエドワードに成りすましているという事実しか分からないのに、コンスタンスのジョンを好きな気持ちは揺るがないという事。
彼女に迷惑をかけられないと姿を消したのに、コンスタンスはわざわざ彼を追いかけていく程。
これを、盲目の愛が最後には真実の愛になるなどという映画におけるラブロマンスのよくある一例に過ぎないと見過ごしては、この作品を今までとは違うように解釈出来なくなってしまう。それについて考えはまたいつかしたいかな。
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