河

裏町の怪老窟の河のレビュー・感想・評価

裏町の怪老窟(1924年製作の映画)
4.2
ドイツ表現主義映画として『カリガリ博士』に並ぶ作品だと思う。

蝋人形館のオーナーが蝋人形達のバックストーリーを書かせるために詩人を雇う。蝋人形は有名な人物のものになっているが、その詩人はその人物のストーリーをもとにしつつ、オーナーの娘と自分を登場人物として蝋人形自体の形態や展示環境にもインスパイアされながら物語を創作していくという話。

ハールーン・ラシード、イワン4世、切り裂きジャックを元にした3話によって構成されているが、どの話も史実を元にした詩人のほとんど即興のような創作であるため、詩人の深層意識が現れたようなものとなっている。また、3話において主人公は切り裂きジャックとバネ足ジャックを混同する。

オーナーの娘と詩人は1話では結婚後年月のたった夫婦、2話では結婚当日の婚約者同士、そして3話ではカップルとして登場する。詩人によって2人の関係性が時間を遡っていく形で語られていく。それに対して、創作の中に登場する蝋人形達はその関係性を引き裂く権力者、暴力的な存在として現れる。そして全員が詩人から娘を奪い去ろうとしていく。しかし、どれもうまく切り抜けられどの話でも2人は再度結ばれる。

最初の2話において、詩人は蝋人形の現実に置かれた姿と詩人の個人的な願望、史実を混同しながら語る。詩人が蝋人形に纏わるフィクションに介入するような形となる。それによって、現実とフィクションが交錯する。

1話目から3話目にかけて蝋人形の生きた時代、つまり創作の舞台は現代に近づいていく。1話目では非現実的なセットの元、現実から浮遊したような話となっているが、2話目ではセットがより現実に近づき、より現実的な恐怖を持った話となっている。

詩人の中での現実とフィクションの混同が進むのと並行に、フィクションが段々と現実に近づいてくる、詩人の見えている世界が妄想のようにフィクションに侵食されていくようになる。そして、3話目では詩人の夢の中にそのフィクションが入り込む。3話目は全編が多重露光で撮られており、詩人の中での現実にフィクションが完全に近づいたことが象徴される。

3話を通してオーナーの娘と詩人は関係性を遡っていくが、3話の夢から醒めた後に2人は遂に結ばれる。詩人が創作を通して示していた願望が叶う。ただ、そのラストシーンは現実のようにも、さらにフィクションに侵食された詩人の妄想、創作内部の世界のようにも見える。ラストシーンも全体の話を貫く詩人の創作の規則性に沿っているため、どちらとも取れるようになっている。それを象徴するように、2人を眼差す生きたような蝋人形の姿が映される。

『プラーグの大学生』『カリガリ博士』の流れを引く自己の分裂、現実と妄想の区別がつかなくなる映画で、『カリガリ博士』が錯視的なセットで実現していた現実と妄想の狭間を表すような平面的な画面が、この映画では光の調整、多重露光によって実現されている。『プラーグの大学生』『カリガリ博士』 が一つの物語でやっていたことを3話のオムニバス構成でやっているということを含めて、『カリガリ博士』の先の映画を作ろうとした映画なんだろうと思う。

また、自己の分裂、現実と妄想の混同は『プラーグの大学生』『カリガリ博士』を含めたドイツ表現主義映画に共通する構造となっているが、どの映画にもそれを引き起こす人々を裏で操る魔術師のような存在がいる。この映画では、詩人の現実と妄想の混同が進むにつれ存在感を消していき、最終的には最初からいなかったかのように画面から完全にいなくなる蝋人形館のオーナーがその存在となっている。

非常に独特な光の使われ方がされていて、暗いシーンでは光の絞り方によって暗闇の中に照明の当たった部分のみが浮かび上がってくるような平面的な画面となっている。それは蝋人形館でのシークエンスに顕著で、それに対して創作である1話目と2話目は明るい画面が中心となっている。そして、その蝋人形館での平面的で暗く一部のみが光っているショットは、3話目で多重露光によって重ねられることで、現実と妄想の混同を表すと共に1話目2話目の創作内の明るさに近づくようになる。

1話目のセットの造形、光の使い方が本当によく、さらに『裏階段』に引き続き非常に象徴的なショットが連打される。あと1話目のエミール・ヤニングスのほくほくした喜劇的な良さを吹き飛ばすくらい、照明と構図も相まって2話目の俳優の人間味のない狂った演技が良い。監督のパウル・レニは若くして亡くならなければフリッツ・ラングやムルナウに並ぶ映画監督になっていたはずというのを読んだけど、実際この2人とはまた違う映像的な表現の凄さを持った監督だと思う。
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