ほーく

ボウリング・フォー・コロンバインのほーくのレビュー・感想・評価

4.3
ナイト・オブ・ザ・リビングデッドを観たことがないのか?ですと?

わたくしに・・・面と向かってよくおっしゃる

【反骨精神】
私の好きな言葉です

昔、友人に言われたことがあります
「お前は、反骨のひとだな」
何故か、誇らしかった自分がいました

でもね、 今でもそうなんですけど、反骨って貫くのしんどいんですよね

最近、反骨ってないかなぁ 
なんて自省してるんですけど、どうっすかね?

ちなみに、その友人が再度登場のマキトモさんです
この作品にも寄稿してもらいました
お楽しみください

邦題「ボウリング・フォー・コロンバイン」

原題「Bowling For Columbine」

2003/4/12@梅田ガーデンシネマ1 

評者 マキトモ 評価4

一言コメント  

必見! 手法に疑問が残らなくはないが、少なくとも気合いは入っている。それに、とりあえず楽しい。 

評者 ほーく 評価4

一言コメント

  笑いは立派な武器なんだぞ!

 そのうち書くけど、四の五の言わずに観やがれコンチキショー!(ほーく)

 先に、ひさびさ登場のマキトモさんの評をご覧くださいませ。

~~~~~ここからマキトモさん評~~~~~

 コロンバインの高校で発生した銃乱射事件をめぐって、マイケル・ムーア自身が様々な人々にアポ無しインタビューを敢行する、という内容。 スタイルとしては両論併記だが、銃を擁護する人たちの末路は全員同じだ。安直な世界観(※1)を露呈して、墓穴を掘ってゆく。

 本作が一般的なドキュメンタリーと一線を画すのは、インタビュアーであるムーアの発想が行動に直結しており、それがそのまま映像の形となっている点だ。「カナダ人はアメリカ人と違って留守でもカギをかけない」と聞けば、ムーアがそれを確認するためにカナダの一般家庭の玄関(もちろんアポ無し)を次々と開けて歩く腰の軽さ。全編、この調子である(※2)。「ドキュメンタリーとエンターテイメントが融合した」と評される所以だ。

 この手の、コジツケすれすれのドキュメンタリーは、一歩間違うと、悲惨な現実をネタに下司な笑いを取る、とても罪深い作品に堕する危険があったと思う(本で言えば「お笑い北朝鮮」みたいに)。本作がそういうエンタテイメントの罠に捕らわれなかった原因は、本作の基底に終始一貫して流れる、マイケル・ムーア自身の強い「怒りと疑問の叫び」であり、アメリカの病理を告発する強い決意である。それが、行動に直結している姿は、実に爽快だ。そして映像は面白い…。

 それで結局、彼の繰り出す映像に全面的に納得出来たのか、というと、残念ながら私にとってそうではなかった。映画館内で楽しめた部分ほど、後日、妙に後味が悪い。たとえば「銃犯罪を無くすには弾丸を1発5000ドルにすればいい。俺が貯金を始めたら気をつけろ」という小話は面白かったが、1発100万ドルのトマホークが10日間に1000発飛ぶ現実を考えれば、あまり笑えたものではなかった。まじめなシーンでは、歌手のM.マンソン(※3)のインタビューが出色だった。彼は「恐怖で消費を煽りたて、それが企業の利益になっている」という社会の構図を白塗りの舞台衣装のまま淡々と指摘(※4)した。だが、消費者を煽って利益を得るのは、音楽業界も(あるいは上記の1発5000ドルの小話も)同様なのではないだろうか? もちろんM.マンソンはコロンバインの銃乱射事件に対して責任はないし、音楽は銃より安全性が高い。だがM.マンソンの売りである派手な出で立ちは(既成社会への反逆という彼の表層的なイメージとは逆に)、彼自身が現代消費社会の「煽り→お金」という安直な基本構造の忠実な構成員であることを示しているのではないだろうか?

 まったくもってムーア監督の行動力には敬服する。またオスカー受賞の時の演説も(※5)傑作だった。天晴れだ。それでも、本作の真の告発対象である「アメリカ人のかかえる病理」の本質が、本作によって明らかになったとは、私には思えない。私が銃乱射事件の当事者だったら、複雑な気持ちで本作の「面白さ」を眺めただろう。「それはそれで、面白いんだし、いいじゃないか」とも言える点が、当事者ではなく傍観者(消費者)である我々の難しいところだ。



1;「銃で家族を守る権利がある」だの「様々な人種がいるから銃が必要だ」だの「ゲームやパンクが悪い」だの…。



2;題名の「ボウリング」からして、「銃を乱射した少年たちは、ボウリングのファンだった。なのに、少年犯罪の温床としてボウリングが非難されないのはおかしい。ボウリングが銃乱射事件の原因でないならば、歌手やテレビゲームだって少年犯罪の温床ではないじゃないか?」という彼の背理法である。もちろん、ボウリング場のシーンもある。



3;「俺たちは存在しない神の奴隷ではない」などという歌詞で、信心深い保守層に受けの悪いパンク歌手。コロンバインの高校で銃を乱射した高校生がファンだった、という陳腐な理由でバッシングを受けた。



4;マンソンをバッシングする人々のヒステリックさとは対照的な、極めて知的で印象的なインタビュー。もしもスーツを着た、ニクソンのような抜け目の無さそうなコメンテーターがスタジオをバックに、マンソンと同じ内容を述べたなら、説得力は半減し、胡散臭さは倍増したただろう。映像は恐い。



5;「私はノンフィクションを作っているが、現実の私はフィクションの世界に生きている。イカサマで選ばれた大統領がイカサマの理由で戦争を始め、イカサマの情報が流れている。我々はこの戦争に反対だ。ブッシュよ、恥を知れ、お前の持ち時間は終わった」とムーアは言いきり、会場はブーイングと拍手の渦となった。なんと新鮮な演説風景だろう。さて日本では、政治がフィクションで政治家が恥知らずのイカサマ野郎揃いなのは、誰もがみぃ~んな知っている常識である。「総理はイカサマだ」と叫んだぐらいでは、誰も何とも思わない。彼の演説を楽しむ前に、我々日本人こそ恥を知るべきである。

追記;

 さて内容はともかく、ボウリング・フォー・コロンバインは最低だった/視聴環境が。前の座高の高い野郎の頭で字幕が見えず、頭を左に動かして字幕の左半分を読み、字幕が消える前に急いで頭を右に動かして字幕の右半分を読み、読めないところは耳から入った英語で補正する、という実に苦しい視聴態勢を強いられた。ガッデム!ガーデンシネマ梅田4階。おまけに、後ろで笑い上戸の白人視聴者が、血まみれの人間が引きずられるような実写シーンですら「トムとジェリー」みたいな爆笑をして、前の私の座席をポコポコ蹴るという有り様(酒か薬でラリッていたのだと思う)で、もう苦痛と忍耐の2時間だった。この映画の印象が不快なことの大半は、上記に挙げた環境の劣悪さに起因する。思い出すだけで腹が立つ。字幕は画面の上に付けて欲しい。

(マキトモ)

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ははっ、俺、結局、書いてねーじゃん
ごめんね、 マキトモさん
ほーく

ほーく