Jeffrey

テルレスの青春のJeffreyのレビュー・感想・評価

テルレスの青春(1966年製作の映画)
5.0
「テルレスの青春」

〜最初に一言、超絶傑作。「ブリキの太鼓」の監督の初期作にこれ程の隠れた名作があるとは思いもしなかった。社会における性と暴力の支配のメカニズムを日常の細部において描き出す能力は、本作の中にも色濃く表れており、事実上の処女作にして監督の類稀な資質が垣間見れる才能ゆえに自らの作家的痕跡を残した傑作である。美少年の代名詞である「ベニスに死す」のビョルン・アンドレセンのヴィーナスを思わせるような甘い美貌とは対照的に、カリエールの顔は硬質なギリシャ彫刻を思わせる魅力を持つ。まさに本作は映画「モーリス」と「寄宿舎」の間に立つ作品である〜

本作はフォルカー・シュレンドルフが1966年に監督して、国内ではVHSしかなく、やっとの思いで見つけて購入して初鑑賞したがやはり傑作だった。ロバート・ムシルの自伝小説を原作としおり、20世紀初頭のオーストリアの軍事学校での少年団の暴力的でサディスティックで同性愛的な傾向を扱った独、仏映画でこれが未だにソフト化されてないなんて信じられない程の傑作であった。どうやら噂ではクラテリからBD化もされるとか…?!日本ではivcあたりから出してくれないかな。当時、美少年として騒がれていたマチュー・カリエールの美しさには男の俺でさえ、おお!美しい子だな、うん。と思ってしまう程だ。それに説得力があった。

1966年製作のこの作品は、シュレーンドルフ監督の長編デビュー作にあたり、カンヌ映画祭で国際批評家賞を受賞、彼の名を一躍有名にするとともに、ドイツ映画を新たに目覚めさせるきっかけとなり、ニュー・ジャーマン・シネマの先駆的な作品となったのは言うまでもない。原作はローベルト・ムージルの「若いテルレス惑い」である。ヴィスコンティ監督も映画化を計画していたと言う本書は、ヒトラー政権下には禁書処分となり、作者はスイスに亡命したそうだ。思春期の少年たちの残酷な行為とそれを傍観するテルレスの中に、かつてヒトラーに身を任せたオーストリアのナチ連合を重ねて見ることも可能だが、少年期の持つサディスティックな欲望が容赦なく暴かれる様は衝撃である。

そういえば、今回のスタッフ一覧を見てみると、音楽はハンス・ヴェルナー・ヘンツェだったから、監督の「スワンの恋」「カタリーナ・ブルームの失われた名誉」の音楽を担当しているため、初期からタックを組んでいたんだなと初めて知った。ヘンツェは確かアラン・レネ監督の7ミュリエル」も担当していたと思う。それにしても当時16歳のカリエールが特に印象をかっさらっていく。まだ自分も見たことがないのだが(劇場未公開)「トニオ・クレーゲル」と言う作品に続いて2作目の映画出演だったそうだ。その後フランス映画に何本か出演した後、76年に「とどめの一撃」(自分は未見)で再びシュレーンドルフ監督作品に出演している。また娼婦ボジェナには、イギリス出身で、イタリア映画のホラー作品に多く出演しているバーバラ・スティールが招かれて出演しているのは個人的にはびっくりした。


さて、物語はテルレスは人里離れた寄宿学校の上級生である。彼は聡明だが年の割にはいささか醒めたところがある。しかし、クラスメイトたちは彼を尊敬している。ある日テルレスは、バジーニと言う、ほら吹きでおべっか使いの同級生が、他のクラスメイトから金を盗んだことを知る。クラスの2人のリーダー、バイネベルクとライティングは、この盗みを暴露するのではなく、自分たちだけでバジーニを罰しようとする。ライティングは、バジーニを自分の言う事は何でも聞かなければならない奴隷にしてしまう。例えばゴミを食べさせたり、激しく殴ったり、鞭で打ちのめしたりする。このことでライティングは獰猛で残酷な興奮を覚える。一方、バイネベルクの残酷さは、ライティングほど直接的ではなく知的なものである。

彼はインド哲学と神秘主義に関して考えを妄想的に膨らませていて、彼を睡眠実験にかける。しかしこの彼の知的ないじめは、ライティングのそれよりもはるかに危険である。なぜなら、そのいじめは精神と学問的興味と言う美しい装いのもとに行われるのだから。彼は例えばある時こう言う。僕はこのことをあれこれと考えてみた。バジーニのような人間は、世界の驚異に満ちたメカニズムの中では、何の意味も持ち得ないんだ。彼はいないも同然なのだ。なぜって、世界の魂が自らのー部分を保持することを望むなら、それはもっとはっきりと現れるからだ…。こうして、ドイツの最も暗い時代は始まった。非合理的権威の名のもとに、この映画でも、またあの頃にも、人間から生存の正当性を奪ったのである。

映画の主人公テルレスは、この隠れた裁判の場に参加はするものの、傍観するのみであり、クラスメイトの残酷な行為を阻止するのではなく、この連中に惹きつけられているのを感じるのである。彼は介入する代わりに彼らの形而上学的背景を熟慮する。彼が最終的に、これらのいじめ全体が全く何の根拠のない、下卑な行為であって、それを妨げる事は彼の義務であると言う考えに達するときには、もう遅すぎた。バイネベルクとライティングはテルレスに対して、もし喋ったら共犯に仕立て上げてやると脅迫する。やけになったテルレスは、バジーニに先生に助けを求めるように忠告し、自分は学校から逃亡する。かくして自体は学校当局の知るところとなり、テルレスは教師全員の前で、自らを正当化し、自分のしたことを説明しようとするが、全く理解されない。

彼は学校を去るよう忠告され、自分の認識したことを誇りに思いつつ母親と共に去っていく…とがっつり説明するとこんな感じで、郊外にある男子寄宿学校の上級生である彼が、クラスメイトの子たちが、とある子をいじめて、困惑しつつも何もせずに傍観して、徐々に強く嫌悪するとともに惹かれていく自分を感じて、その陰湿ないじめは次第にエスカレートしていき、テルレスは1つの結論に達するまでを描いた少年たちの限りなく、美しくそして残酷な物語をこれまでかと思うほど写した大傑作である。この映画何が凄いかって、細やかな心理描写が序盤から終盤まで延々と続くのだ。その不気味な雰囲気に途中で耐えられなくなるほどの怖さを感じる。原作未読だが、原作もこのような感じなのだろうか?とても興味深い。


いゃ〜、冒頭から憂鬱なモノクロ映像で静かな音楽と共にセリフなしに捉えられていくのだが、なんだか最初から重たい感じがしてゲンナリする。テルレス役のマチュー・カリエールがクラスで授業を受けているときにハエを万年筆で潰す描写があるのだが、そのクラスの雰囲気がトリュフォーの「大人は判ってくれない」に似ていた。彼の学ランのような制服姿は凛々しい。この映画見ていくとハネケの「白いリボン」に通ずるところもあるなと思う。それは少年たちのサディスティックな行為に、ファシズムの象徴を見たりできる場面があるからだ。その少年バジーニはユダヤ人の扱いに置き換えて考えることもできる。なんせ四面楚歌(村八分)状態なのだから。バジーニがどんどん虐待されエスカレートが進み、体育館でいよいよロープで逆さ吊りにされ、口に布を詰め込まれ口を塞がれ、いよいよ残酷なゲームが始まるシーンなど強烈である。

余談だが、監督の父は医師で、同じくニュー・ジャーマン・シネマを代表したヴェンダース、ファスビンダーも父親は医師であると言う事実は偶然なのか…と話を戻して、この映画ではいじめられている少年バジーニの裸を見てあっと驚く主人公のテルレスの表情を見ると、男子校で同性愛に目覚めてしまうものなのかと一瞬思った。異性のいない思春期はやはり同性ばかりの学校に閉じ込められると起こりやすいのか…。この映画は官能的な部分もあるにはあるが、少しばかり抑え気味である。もちろんいじめられ役の少年がテルレスのように美少年であればもっと官能的かつポルノグラフィック的な演出を増やせばさらに格調高い官能的な(モーリスやアナザーカントリー、ブロークバックマウンテンのような)同性映画が作れたのかもしれない。といってもセールスポイントは少年たちの同性愛ではないため、ここまでを映像化するのがほど良かったのかもしれない。


長々とレビューしたが、この映画はVHSのため、なかなか見ることが難しいと思うが機会があればぜひ見てほしい。たかがホモセクシャル的サディズムを傍観する美少年の視点から描かれただけの作品だが、彼があえて黙視したことにより、彼自身の欲求、欲望が満たされていくものを目の当たりにする我々は、この悪魔の悪戯の被害者をどう見ていくのか試されるのだ。我々もテルレス同様に傍観者としてこの約1時間30分を経験することになる。「デミアン」を彷彿する内容とクライマックスの〇〇が彼の人生の始まりを告げるように自分には見えた…あぁ、傑作。
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