Ryo爺

シークレット・サンシャイン 4K レストアのRyo爺のレビュー・感想・評価

3.9
『シークレット・サンシャイン』は、2007年公開の韓国のヒューマンドラマ映画。監督・脚本は『ペパーミント・キャンディ』『オアシス』のイ・チャンドンが務める。作家イ・チョンジュンの短編小説を原作としている。主人公シネを演じたチャン・ドヨンは2007年・第60回カンヌ国際映画祭で韓国人俳優として初の女優賞を受賞した。


またぞろTBSラジオ「アフター6ジャンクション」で8/23(水)に放送された‟巨匠イ・チャンドン監督ラジオ独占インタビューby宇多丸”を聴いて観に行くことを決めました。ヒューマントラストシネマ有楽町の特集上映「イ・チャンドン レトロスペクティヴ4K」にてリバイバル上映されている今作。劇場は流石と言いますか満席で、客層も老若男女問わず。宇多丸さんが「鑑賞後しばらく立つことが出来なかった」と語っていた衝撃作。果たしていかなるものなのか?
ではいってみましょう。


<冒頭のあらすじ>
夫を事故で亡くしたシネ(チョン・ドヨン)は幼い息子を連れ、夫の故郷である地方都市密陽:ミリャンに引っ越してくる。そこで自動車修理工場を営む男性ジョンチャン(ソン・ガンホ)と知りあった彼女は、彼の好意でピアノ教室を開き、順調な新生活をスタートさせる。ところがある日、息子が何者かに誘拐されてしまい……。
※映画.comより引用、加筆。



【現在に幾らでも置き換えられる普遍性】

ざっくり言えば、1人の女性が悲しみの果て、真実に目覚め、神に喧嘩を売る話。

人が自分で受け止めきれないほどのショックや悲しみに遭遇した時の反応は、様々かと思う。1つ例を上げられるとすれば、何かに酔い、忘我することで。何かを盲信することで。思考を止めてしまうことで、苦しみや悲しみを感じないようにするのではないか。

今作の主人公シネは悲しみの果て、宗教に心酔していく。それはある種自然な反応であり、責めるとか目を覚まさせるなんていう気には到底ならない。宗教で救われるなら結構なことだと思う。いったい自分の目がきちんと開いているかなどと誰が分かるというのか。

しかしあることをキッカケに、神の教義の矛盾に気づいてしまったシネはその嘘を暴き、たった1人で神に喧嘩を売り続ける。宗教の拠って立つ禁忌を犯す様を天にまします神に見せつけることで。

汝、盗むなかれ
汝、姦淫するなかれ
汝、殺すなかれ

シネは自分の身を顧みず、禁忌を犯し続け、嘘を暴くことに邁進していく。その姿はある種のカタルシスとそれを遥かに超えた痛ましさに満ちていた。ふと我に返るとシネは自分の行いのおぞましさに嘔吐する。狂気と正気のせめぎ合い。

インタビューで監督自身が話していたことだが、監督の作品で共通するテーマは、真実と向き合って戦う人の姿を描くということだそうだ。人にとって真実に気づくことはいいことなのか?悪いことなのか?今作におけるシネも真実に目覚め、向き合い戦うのだが、そのことでより苦しく、不幸な状況に追いこまれていく。それでも人は真実と向き合うべきなのか?監督は作品を通して、自分に対しても問い続けている。

作品の中でソン・ガンホがシネに思いを寄せる能天気な男を演じている。がその俗っぽさ故に、自分への素直さ故に、変わらず飄々とあるいはふらふらとあり続け、重苦しい空気の作品の通風孔の役割を果たしていた。シネには軽んじられ、邪険に扱われていたが、最後まで変わらず寄り添ったこの軽い男に、少しは報いがあってもいいのではないかと思った次第である。


<総評>
この時代の韓国において、このセンシティブな内容で映画を作り、放映したというのは、当時相当な反発があったのではないかというのは想像に難くない。しかし作品はどこまでも真摯で真っすぐで、その静かな力強い語り口はイ・チャンドン監督のお人柄同様である。

ただ普段から宗教とは縁遠い僕には、なかなか受け取るのが難しい作品でもあった。しかし今まで拠って立つ真実が自分の中で崩れ去る感覚。現実がねじ曲がり、地面が反転するかのようなあの感覚をかつて味わったことがある。それは今でもはっきりと思い出せる。
Ryo爺

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