麻生将史

哀れなるものたちの麻生将史のレビュー・感想・評価

哀れなるものたち(2023年製作の映画)
4.0
途中までは、この映画の予告編やラジオの紹介から想像されるような筋で物語を楽しめたと思う。即ちそれは「一人の人間が、自分とその身体・その身体と他人との関係を通じて、"主体"的に生きるとはどういう事かを知っていく」といったもの。

ところが、終盤のある展開で私は度肝を抜かれた。
将軍がヤギに“improve"されたシーンだ。

正直このシーンは、ここまでのベラの成熟に照らし合わせても(ブラックジョークとしても)あまりそぐわないのではないかと思った。
別に「将軍にも慈悲を」と言いたいわけではない。出血多量であのまま死んでも良かったし、なんなら股間にもう一発撃ち込んでも納得できるくらいだ。
でも、ヤギにするかな。まあベラという存在自体ああやって生まれたんだから別に気にしないのもわかるけど。

この違和感から出発して、ベラが獲得した主体性とは一体なんだったのか、それをどう描こうとしているのかを考えたくなった。

似たようなテーマの映画で『バービー』が挙げられるけど、僕があの映画を好きなのは、最終的に“存在そのものへの肯定”に物語が着地するからだった。“女性の自立”という枠だけに留まらず、“主体的な存在としてこの世界に在ること”を爽やかに軽やかに描いてくれたことが嬉しかった。男性の自分も勇気をもらえた。

ではこっちはどうだろう。
ベラは確かに、冒険を通じて“自分の身体と自分の人生は自分の好きにできる“という主体性を獲得した。でもそこに爽やかさはあったか。ベラはそれによって自由と生きやすさを得たか。
むしろ僕には、ベラが主体性を獲得したことは“当然の成り行き”として描かれているように見えた。その時々の状況に応じるかたちで、内的世界は変化していくが、ベラ自身のトーンは最初から変わっていないのではないか…。

『バービー』が“存在そのものの肯定”を描いたのなら、これは“存在そのものの憂鬱”とでもいうべきものを描いたのではないか。
「主体的に生きることは人間の当然の権利で、何人たりともそれを制限できない。この世界でより良く生きるためにはそうすべきで、それが好ましい。……でも一体それがなんだっていうの?…どんなに主体的に生きようが、肉体という檻からは逃れられない“存在”たち。意識というものを生み出して動物から人間になったように、その時々の状態に適応して、今日も生きていってしまう“存在”たち。…哀れなるものたち」

この映画の通奏低音にはそんな言葉が響いているのではないか。

ヤギにされた将軍の草を喰む憂鬱そうな眼差し。ベラのファーストカット、ピアノを叩くときの(本当の赤ん坊が時々やるような)虚無な表情。全編セットで撮られた美しいが箱庭的な映像。エンドロールのミニマルな音楽とミニマルな映像。
ここには“外の世界”というものが存在しない。どうしようもなくこの内側で(人間という存在として)生きていくしかないことの憂鬱さ。

なんだか、そんなことばかり考えてしまった。

(オルタナティブサイエンスみたいな描写は楽しかった。鶏イヌ、外部式胃腸とボワーなゲップ、馬車風蒸気自動車)
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