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中森明菜イースト・ライヴ インデックス 23 劇場用 4K デジタルリマスター版のkuuのレビュー・感想・評価

4.0
『中森明菜イースト・ライヴ インデックス23 4Kデジタルリマスター版』
製作年 2023年。上映時間 92分。
映倫区分 G
1989年4月29、30日によみうりランド EASTで行った、デビュー8周年目の野外アニバーサリー・ライヴ 『AKINA INDEX-XXIII The 8th Anniversary』のライヴ映像。今回の劇場上映に際し、映像は最新の4K デジタルリマスターで鮮やかに再現。

※追記ってはじめに書くのは変ですが、
中森明菜
@akinan_official
いつも応援してくださるファンのみなさまへ。
本日はデビュー記念日となります。 こんなにも 長い間、 みなさまと共に過ごさせていただき、 本当に感謝の気持ちでいっぱいです。 万全な体 調ではないため申し訳ない気持ちもいっぱいで すが……41年目もどうぞよろしくお願いいたしま す。 あきな

2023年05月01日 9:30 午前 ・ 233万表示

とありましたので抜粋しときます。


入場料にはちょっと高って思ったが、観賞後の帰りはすこぶる気分が良かった。
ガチガチファンとまでは云わないまでも、エモい中森明菜教の狂信者😊やった小生姉が、当時、部屋でエンドレスに明菜経を流していて、まるで密教の狂僧侶が護摩を唱える読経の様に、姉が曲の数々を歌ってたからか、『門前の小僧習わぬ経を読む』よろしく(繰り返し見聞きできる環境におけば、自然とその知識がつくようになるものであるということ。しばしば、『門前の小僧』の句で用いられる。)、今作品で流れた楽曲全て口ずさめた。
その楽曲群を抜粋しておきます。

1. TATTOO【21stシングル】〈1位〉
2. DESIRE -情熱-【14thシングル】〈1位〉
3. Fin【16thシングル】〈1位〉
4. SOLITUDE【13thシングル】〈1位〉
5. BLONDE【18thシングル】〈1位〉
6. I MISSED "THE SHOCK"【22ndシングル】〈3位〉
7. SAND BEIGE -砂漠へ-【12thシングル】〈1位〉
8. AL-MAUJ(アルマージ)【20thシングル】〈1位〉
9. ジプシー・クイーン【15thシングル】〈1位〉
10. TANGO NOIR(タンゴ ノアール)【17thシングル】〈1位〉
11. ミ・アモーレ [Meu amor e...] 【11thシングル】〈1位〉
12. 難破船【19thシングル】〈1位〉
13. 飾りじゃないのよ涙は【10thシングル】〈1位〉
14. 禁区【6thシングル】〈1位〉
15. 少女A【2ndシングル】〈5位〉
16. 十戒(1984)【9thシングル】〈1位〉
17. 1/2の神話【4thシングル】〈1位〉
18. サザン・ウインド【8thシングル】〈1位〉
19. 北ウイング【7thシングル】〈2位〉
20. Blue On Pink【23rdシングル「LIAR」カップリング曲】
21. LIAR【23rdシングル】〈1位〉
22. トワイライト-夕暮れ便り-【5thシングル】〈2位〉
23. セカンド・ラブ【3rdシングル】〈1位〉
24. スローモーション【1stシングル】〈30位〉

観客の皆さん結構ノリノリやった。
こないな楽曲で、多くの人が耳にした曲ばかりが流れた故に今作品を楽しめた一つ要因なんやとは思う。
(熱烈な信者なのかもしれないが)
まぁそれだけではなく、観ていてエモい。
なんちゅうても中森明菜は今でも可愛くて輝いてる。
そんな中森明菜は今は姿を消している。
もともと謎めいたミステリアスな人物やったと微かに記憶しているが、今作品最後に彼女自身の肉声を聴いて、復活して欲しい歌手の独りやと胸の奥で願った。
しかし、彼女は単に可愛いだけでなく、綺麗で美しいという、まさにアイドルやと、大人目線でみたらそう感じる。
これは、聖子ちゃんなどが華やかで健康的なスタイルだったのとは対照的かな。
その後、痩せたものの。
いずれにせよ、明菜の本質はビューティタイプの美しさにあったんやなぁと。
この点に気づけなかった人たちが(小生も含め)、今、再認識している。
日本以外の多くのアジアンでも。
また、今の若者の多くが、Youtubeなどで青春時代の明菜を見て認識はしてると思う。
ただ、そんな明菜の優れた美しさには、ひとつだけ欠点とも云うべきモノがある。
それが、個人的には武器やと思てるけど、それは明菜の場合、暗い性格があげれる。
いずれにせよ、美学や美容学の観点からは、中森明菜は日本で最も美しい女性の一人と云える。

この後は、チョイ小難しく、明菜ちゃんを改めて徒然に考察してみます。
ってかドーデモ良いことツラツラと進めますし、お時間あるときにでも読んでいただければ幸いです。

※松田聖子を聖子ちゃん
中森明菜を明菜と表記してますが、どちらのアイドルにもリスペクトを込めた表現なので、もし堪に障る方がおいでならお許しください。

明菜は80年代を通してその対概念的な陰翳や孤独を表現し続けてた。
その情熱的な内面への没入にはディオ
ニュソス的(ニーチェが『悲劇の誕生』で説いた芸術衝動の一つで、陶酔的、創造的、激情的などの特徴をもつさま。)な陶酔さえ見うけられる。
誰やったか、哲学者のオッサンが、
“ 私は私よ、関係ないわ ”
と喝破する彼女を
『遅れてきた実存主義』 
やと称しとった。
その後も彼女が一貫して実存的孤独を歌い続けることを考えてもこの指摘は正鵠を得たモンやと云える。
ただ留保しておかなければならないのは、そこで反復される彼女の実存が、単純な主体性に回付されることのないパラドクシカルな二重性を帯びていることであり、それは彼女の実存が、聖子ちゃんと同様にテレビ画面において自明に表現されるべき〈主体〉の根本的な存立を揺るがす変容の最中にあったことを意味している。
確かに初期とりわけ『少女 A』における明菜は、〈実存〉的論理によってこそ自身の固有性を確保していたと云える。
それは自らを不良少女や性対象として眼差し、またそう売り出そうとするオトナたちに対するアン
チテーゼであり(彼女のキャッチフレーズは
『ちょっとエッチなミルキーっ娘』やったみたい)、そないな世間のまなざしに対する抵抗としての実存であった。
しかし、この孤独な実存性は『SOLITUDE』を境として、『ジプシー・クイーン』、『最後のカルメン』そして、『LA BOHÈME』など、より
ディレッタントな装飾性を帯びたものへと変貌
していく。
これらに共通するのは、『ミ・アモー
レ』より続く頽廃的なエキゾチシズムであると
同時に、都市において境界を越境しつつ彷徨す
る者の不安、すなわち〈異人〉のモチーフであ
ると思う。
ジプシー、高級娼婦、ハーレムの女性、近未来的なアンドロイド。
これらは単なる異国趣味にとどまらず、共同体における
外部=他者
としての〈辺縁〉に位置する者の集合であり、
80年代後半の中森はこの通奏低音の上で、い
ずれも  
“ 私は独り ”
とシニックに独白する定型性の中にいる。
これらの作詞者がすべて異なることを考えれば、彼女の〈異人〉性は数ある作詞家(と聴衆)を透過して形成された、集合的表象であると考えてよいかな。
重要なんは、ここにおいて彼女が、『抵抗』
する対象としての他者、それとの偏差によって
自己を定位する他者を失っていることである。
“ 誰もみなストレンジャー ”
って歌う彼女の独白てのは、自らを〈異人〉と化しながら、他方でその〈異人〉性を自嘲するという倒錯したアイロニズムの中にある。
われわれはそこに、単なる憂鬱を越えた、もはや〈外部〉の存在しない、人格の自己準拠的複製と二重化の論理を見出さねばならない。
それは確かに、ファッショナブルな異国趣味やアンドロイドといった形象を帯びている点で、聖子ちゃんの記号性と通底するものであり、明菜の描く孤独はこの同一性の変容に対する主体の不安でもある。
とは云え、聖子ちゃんが記号的な表層の世界に完全に順応した軽薄ささえ感じるほどのとこを生きるのに対し、明菜はその過剰性をあくまでもその外部から、その全体において捕捉し、ロマン主義的な芸術性に昇華しようとする。
この厚みこそが、最終的に身体的な実存性へと賭す明菜の表現の本質にある。
消費の表層をその内部にまで没入し演じきる聖子ちゃんに対し、それをあくまでも全体的な深みにおいて外側からシニカルに表現する明菜。
この両者の対比はいささか皮肉的かな。
しかし、この全体への指向は自己の再帰的な演技性が求められる消費社会的現実。
実際、『DESIRE』以後、彼女はシングル毎にその衣装を大胆にモデル・チェンジしていくという
自己プロデュースを指向することになる。
このことにおいては、深刻なアイデンティティの危機を引き起こすこととなっちゃうねんなぁ。
聖子ちゃんにおいては(少なくとも歌詞の水準では)演技するべき松本隆=蒲池法子の水準(「メタ聖子」)と演技される『松田聖子』とが明確に弁別され、しかもその落差が前提とされていることによって、両者の自己の関係が明確に繋留されていた(それゆえに彼女の心象風景はつねに『メタ聖子』からの俯瞰的なゲームとして描かれることになる)。
しかし、明菜においてはそのような多重人格的な主体の装置は原理的に不可能に近い。
彼女はあらゆる主人公を演じようとはするものの、それは演じようとする『メタ明菜』が等価に複製された影でしかありえず、その境界も曖昧なまま。
結局彼女はどの曲においても、漂泊する自己の不安に身をまかせまかせる一方でそれを傍観し、シニックに嘲笑するほかない、孤独な存在やと思えてならない。
“ 私は泣いたことが無い ”
と虚無的な逆説から始まり、時間の経ぎるまま無感動に自己を傍観し続ける
『飾りじゃないのよ涙は』
は、この二重化する主体のやるせなさを描いた
ものとして特筆すべきや。
この点に関しては、聖子ちゃんは【蒲池法子】は本名と芸名を使いわけ、松田聖子を演じきっていた。
そして、蒲池法子が演じている芸能人・松田聖子が、さらにアイドル・松田聖子を演じていた。
そう云う二重、三重の構造にあったたさかい、松田聖子は数限りないスキャンダル攻撃を受けても耐えられた。
あくまでも本人は。
しかし、本名を芸名とした中森明菜には逃げる場がなかった。
それが、後に大きな不幸を招いた要因の一つなんやとは思う。
人格を多重化させる聖子ちゃんの戦略に対し、中森はあくまでも主体の〈実存〉の最後の望みに賭けようとする。
その結果生まれた憑依的なまでの表現は、結果的に演歌・歌謡曲の牙城たるレコード大賞を勝ち取るなど、聖子ちゃんが成し得なかった業績を達成し、ポップスの優位を世間に広く知らしめることになる。
しかし、彼女はそれ以上『アイドル』を続けていくことはできなかった。
結局、彼女に付与され続けた〈異人〉性は、現実の中森自身をも侵蝕し、自殺未遂という深甚な帰結をもたらすことになる。
より正確に言うなら、彼女は自殺という身体の現実性を否応なく自覚させる行為によってこそ、『中森明菜』のもつ虚構性を断ち切ったんであり、このことはそれ以後の彼女が活動の停滞と休止、そして再開を緩やかに繰り返していることの大きな理由であると考えられる。
記号を装甲して既成価値に対抗する松田に比べ、
彼女の『抵抗』は、その生身の身体を犠牲にす
ることでしかなし得ないものであったと云える。
いつか彼女歌声を聴ける日がくるのか。
小生はその日がくることを切に願う。
kuu

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