「TVで見てるから、ウソだって分かるんだよ。」
「是枝裕和」監督の作品が取り扱う題材は「普通の幸せとは」という問いについて、様々なアプローチを見せてくるところに毎回一貫性があるように感じる。
どこにでもある日常の中で、どこかが少しだけ普通じゃない境遇にあって、それでもより良い明日を夢見て苦悩する。
決して大それた幸福ではない。
けれどもその何気ない、多くの人が当たり前に享受している普通が遠い。
遠いけれど、遠すぎないところが歯痒くももどかしい。
まるで、欲しいものをショーウィンドウ越しに眺めているかのように。
目に見える距離で確かにそこにあるのに。
その透明な壁一枚が邪魔をしてどうしても手が届かない。
そして、身近に感じる分だけ悲しい。
そんな哀愁が毎回強く突き刺さる。
今作の劇中でも、少年に対し母親が「あんたが大人になって普通に結婚して幸せになるまで…」というような言葉を放つように「普通」と「幸せ」についてのあり方を毎回穿った観点から問いただしてくるところが特徴の一つでもあり、そんな"身近で遠い存在"がテーマだからこそ、より深く考えさせられる没入感を得られる作品が多いのだと思う。
そして、毎度同じように答えを模索しながらも、結局はそれを明示せずに締めくくるあたりもまさに是枝作品という感じだった為、今作が「坂元裕二」脚本というのが意外に感じるほど鑑賞感にはまるで違和感が無かった。
ただし、今作の特色である登場人物の視点を変えて追体験を行うというミステリ色の強い作風と、是枝節ともいうべき解釈が視聴者に委ねられるような作風はあまり食い合わせとしてはよくはない。
何故なら、前者は"明確なゴール"が決まっているからこそ、本来ならば成立する筈の手法だからだ。
つまり、1つの"確固たる真実"=ゴールが用意されている前提で、見る角度=分岐ルートを幾通り辿る事でそれをあけすけにしていく仕掛けこそが面白さの根幹でもあることから、同じ過程を何度も反芻していくスタイルにおいては、"結末が不確定"な状態はある種のフラストレーションに転じてしまう恐れがあるからだ。
それこそ、是枝作品とはこういうものだという"教養"がないまま今作を観た場合、"結局はなんだったの?"という疑問にばかり思考が占領され、それが面白さのベクトルを見失うきっかけとなる要因にもなってしまう。
ただ、是枝作品はその"結局はなんだったの?"を、鑑賞後に楽しむ為の映画という見方をするのが正直正しいのだから、こういう映画は鑑賞中よりも実質鑑賞後が物語の"本質に迫る本番"と言っても過言ではない為、ライトに映画体験を望む人には敷居はそれなりに高い。
度々言及しているが、かくいう僕も純度100%のエンターテインメントが好きな部類だから、こういう映画賞が好きそうな映画は本来結構選り好むタイプの人間である。
ただし、今作は「脚本賞」を受賞したというのも大納得の、実に巧妙かつ技ありな素晴らしい脚本と、複雑な構成をものの見事に映像化してまとめあげた監督の熟練した手腕が、完璧に融合した紛れもない傑作だった。
まず、なんと言っても「怪物」というタイトルと「怪物だーれだ」というフレーズだ。
これが、今作にとって実にいい"目くらまし"の役割を担っている。
今作は、前述したとおり見る者の視点によって多様な解釈が出来る作風となっており、その為に劇中で提示される出来事のほとんどに対しては、真実が明かされる事なく幕を閉じる仕組みとなっている。
そんな作品において、怪物の正体は○○だとか、怪物は実はいなかったとか、全員が怪物だったとかいうような、断定をしてしまうような論表は愚の骨頂とも言えるわけで、何度も言うがこの作品は見る角度を少し変えるだけで、その全てが当てはまるように"感じるよう"構成されている。
この、置かれた立場や境遇で、考え方や顔色がコロコロと変わる人間という生き物の特性を誇張なく描き出したからこその、ある種グロテスクに感じる程のリアルがそこにはある。
だから、怪物という物々しい言葉を突き付けられ、それは誰でしょうと問われているような打ち出し方をされてしまうと、まるで真犯人を探り当てるような見方をしてしまいがちだが、実際はそこにあまり意味はなく真理には辿り着けない。
それこそミスリードとなってしまう。
この作品に本当に必要な視点は怪物が"誰なのか"ではなく、"なぜ怪物なのか"というとらえ方であり、そしてそれは誰にとっての怪物なのかという考え方である。
それを念頭に、ただあるがままの事実だけを取り上げると、劇中の怪物とは「湊」と「依里」が興じていた「怪物ゲーム」を指す単語でしかない事が分かる。
そして、それ以外に真実であると断言できるものは、実は何もない。
冒頭、雑居ビルの火事の原因も、チャッカマンをある人物が持っていたり、出火元にある人物が出入りしていたり、犯人を想起させる情報の提示はいくつもあるが、犯人が誰なのかは明かされないし、物語の本質上それが明確になる事にははっきり言って意味が無い。
校長の孫を、本当は誰が殺めてしまったのかも同様にだ。
更に言ってしまえば、誰が誰に恋心を抱いているのかさえ、言わばそれは状況証拠を基にしただけの、ただの"連想ゲーム"でしかない。
犯罪の検挙にしても最も重要なのは"自白"であり、それがことごとく隠し通された今作にあってはそれこそ真実は闇の中なのだ。
そんな、当事者にしか分からない、誰にも明かせない胸の内を互いが互いに抱えていたが故に、偶然にも事実とは異なるストーリーがでっち上げられてしまうケースは稀にだが確実にある。
人は豊かな想像力を備えていながらも、真理を突き詰める程の思考を備える人はごく少数であり、そのほとんどは目の前の状況の中で"起こり得る事"にしか発想を巡らせる事は出来ない。
この、想像力が豊かだけど矮小という"二律背反"が生み出した状況が、事態を真実から遠ざけるきっかけを生み出してしまう事は往々にしてあるものだ。
「僕の脳は豚の脳なんだ。」
いきなり我が子にそんな事を言われたら、親ならほぼ間違いなくこう返すだろう。
「そんな事、誰に言われたの?」
そんなこと自分の子供が自発的に思考するはずがないと思い込むからだ。
そして、それが実際誰に言われていなくても、自分でそう感じたとしても、そう思い立った理由が打ち明けられないものであるならば、親の期待に応えようとしてしまうのが子供心というものだ。
そして、こういった場合親は無意識に"敵の存在"を期待してしまっている。
自責で何かまずいことが起きているよりも、他責で起こっていたほうが"理解しやすく"受け入れやすいからだ。
依里の父親も、だから"病気"という外的要因に縋って、現実逃避をしておかしくなってしまった。
そんな中、TVでドッキリにかけられた芸能人を見て、嘲笑気味にヤラセを疑う親を見て子供はこううそぶく。
「TVで見てるから、ウソだって分かるんだよ。」と。
そして、何度となく"死"を彷彿とさせる演出で畳み掛けるラストを超えて、あの2人が交わした最後の会話。
生死の真偽はともかく「良かった。」のたった一言に、全ての不条理が免罪されたような解放感を与える描写力には感嘆を禁じ得なかった。