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福田村事件のkomagire23のネタバレレビュー・内容・結末

福田村事件(2023年製作の映画)
1.5

このレビューはネタバレを含みます

(ネタバレですので鑑賞後にお読み下さい)

理念で映画を作ってはいけないのではないか?

私的にも、この映画で描かれた、関東大震災での日本人による朝鮮人虐殺はあり得ない言語道断だと深く思われています。
また、極右思想の持ち主である(と私的感じられる)差別意識に満ちた一部自民党議員の全く反省の無い差別主張やその同調者に、個人的にも知性が底を抜けていると呆れ果てています。

個人的には今さら言うまでもない、民族差別など言語道断であることを前提にして、しかしこの映画『福田村事件』は、一方で同根の問題を抱えていて評価できないと思われました。

その理由は、(一人一人の人間でなく)相手をカテゴライズ(民族ごと、あるいは一部の集団ごと)でまとめて描く傾向を、この映画に感じてしまったところにあると思われています。

この映画『福田村事件』は、関東大震災時の流言(デマ)によって日本にいた朝鮮人の人々が大虐殺される事件の派生から、被差別部落民だった沼部新助(永山瑛太さん)が率いる香川県の薬売り行商人の日本人が、千葉県の福田村で朝鮮人と疑われて虐殺された実際の事件が題材になっています。

そして、他の関東大震災での朝鮮人虐殺事件も含めたこの事件は、流言(デマ)の集団意識によって、普通の人々が差別者と豹変し集団殺人に加担してしまうところに、恐ろしさの本質があったと思われます。

ところが、この映画の福田村の朝鮮人差別による集団殺人の集団意識を煽った人物(あるいはその考え)は、かなり偏った人物達(の考え)だと映画の初めから終わりまで描かれてしまっていました。

例えば、井草貞次(柄本明さん)はかつては日本軍での自身の敵殺害を自慢していた人物でしたが、実際は軍馬係で戦闘に参加しておらず単に部隊の戦闘に参加した人から聞いた話をしていただけで、さらに貞次の息子の井草茂次(松浦祐也さん)が戦争に行っている時に、息子の嫁の井草マス(向里祐香さん)を寝取って子供を作ったことが疑われています。
井草貞次を通して、戦地で相手の殺害を自慢しているような人物は、これほど元からひどい人物だったと描かれているのです。

また、長谷川秀吉(水道橋博士さん)は、常に軍服を着てかなり狂人的な振る舞いをしていて、最後には沼部新助たち薬売り行商人を朝鮮人だと決めつけ煽り集団殺害を率先する人物として、極端に描かれています。

つまり、福田村の朝鮮人差別による集団殺人は、このような鼻から極端に偏った人物によって率いられ発生したのだ、と描かれていたのです。

もちろん例えば、常に軍服を着て(私には狂人に思えた)極端な言動をしていた長谷川秀吉を、演じた水道橋博士さんは熱演だったとは私も思われました。

しかし一方で、水道橋博士さんはれいわ新選組の参議院議員だったことからも分かるように、元々は長谷川秀吉とは真逆の考えの人だと思われます。
その水道橋博士さんが長谷川秀吉を演じる時に、(自身が嫌っている極右のカテゴライズされたステレオタイプの人物描写でなく)しっかりと多面的な1人の人間として演じられていたのかは、正直言うと鑑賞中、甚だ疑問でした。

千葉日日新聞社の記者の恩田楓(木竜麻生さん)は、「悪い朝鮮人もいれば、良い朝鮮人もいる。悪い日本人もいれば良い日本人もいる。」との話をしています。そしてこのことは正しい面があると思われます。
しかし本当は、
<人間には悪い面もあれば良い面もある。そのどちらかを肥大化させて民族などの塊で良いも悪いも差別的に判断してはいけないのだ>
が人間理解の本質だと思われています。

関東大震災時での流言(デマ)による日本人による朝鮮人大虐殺は、良い面も悪い面も併せ持つ普通の人々(人間)が、流言(デマ)によって民族などのカテゴライズ認識を肥大化させ、相手を集団や塊で見て差別断罪するところに問題の本質があると思われます。

しかしこの映画『福田村事件』では、井草貞次や長谷川秀吉などに象徴させた偏った差別主義者やその考えを持った(普通でない)人達が、朝鮮人大虐殺を起こさせたのだ、との描き方におおよそなっています。
そして、彼らは偏った差別主義者であるとして、集団や塊で見て断罪する内容に根底ではなっていると思われました。

つまり、朝鮮人大虐殺で起こったカテゴライズ民族差別とコインの裏表である、井草貞次や長谷川秀吉などの描き方だったと思われるのです。

朝鮮人の人々は、残念ながらこの映画では具体的な多面性ある人物としては登場しませんでした。
同様に、井草貞次や長谷川秀吉らの人物も、良い面も悪い面も併せ持つ普通の人々(つまり人間)として描かれていたとは思えませんでした。

朝鮮人にしろ日本人にしろ、右派的考えの人物にしろ左派的考えの人物にしろ、1人1人を(カテゴライズの塊でなく)名前をそれぞれ持った人物、つまり良い面も悪い面も併せ持った多面的な人間として、描くのが映画の役割とも思われています。

しかしこの作品は残念ながら、そんな映画での表現において真逆の描き方、(多面的な人間でなく)カテゴライズ極端な塊表現になってしまっている、と私には残念ながら思われてしまいました。

映画『福田村事件』は、(おかしな極端な人物達が極端な差別殺人を犯したとの、コイン裏表の、カテゴライズ差別の描き方でない)全く私達と同じような多面的な普通の人々が、時にこのように極端化しひどいことを犯してしまう描き方である必要があったと思われました。
理念断罪先行で、多面的な1人1人の人間の描かれ方になっていなかったことに、私的には残念に思われ、今回の採点となりました。

(ただ、俳優の皆さんの演技はさすがと思われる場面も多く、個人的には、澤田静子を演じた田中麗奈さんと田中倉蔵を演じた東出昌大さんが特に印象に残りました。)
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