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ロストケアのkuuのレビュー・感想・評価

ロストケア(2023年製作の映画)
3.8
『ロストケア』
製作年 2023年。上映時間 114分。
映倫区分 G
松山ケンイチと長澤まさみが初共演を果たし、連続殺人犯として逮捕された介護士と検事の対峙を描いた社会派サスペンス。
斯波を松山、大友を長澤が演じ、鈴鹿央士、坂井真紀、柄本明が共演。
作家・葉真中顕の小説『ロスト・ケア』をもとに、『そして、バトンは渡された』の前田哲が監督、『四月は君の嘘』の龍居由佳里が前田監督と共同で脚本を手がけた。

ある早朝、民家で老人と訪問介護センター所長の死体が発見された。死んだ所長が勤める介護センターの介護士・斯波宗典が犯人として浮上するが、彼は介護家族からも慕われる心優しい青年だった。
検事の大友秀美は、斯波が働く介護センターで老人の死亡率が異様に高いことを突き止める。
取調室で斯波は多くの老人の命を奪ったことを認めるが、自分がした行為は『殺人』ではなく『救い』であると主張。大友は事件の真相に迫る中で、心を激しく揺さぶられる。

今作品は、日本の社会システムが、象徴的なものの中で、高齢者に死という選択肢を与える必要性を強調しようとしている。
しかし、この前提を、観客の目を覚まさせるような痛烈な体験に発展させることに成功してるとは云い難いないが、個人的には松山ケンイチと長澤まさみ、そして、柄本明の演技には脱帽に他ならないし、その力量だけで観てよかったと思てる。
ただ、物語がメロドラマ的になりすぎて、社会批判のインパクトを洗い流してしまってたし、物語の後半は、観客に涙を強要することにこだわるあまり、映画の中盤で花開き、ターニングポイントを構成する、はかなくも痛烈な社会批評を鈍らせているんは残念なとこやった。
まぁ、その点は、演者さんは全くもって責任はないんやけど。
また、同意の次元は、死刑という死刑判決の正しさを問うためにも利用される。
しかし、一連の殺人事件と死刑制度が同意の蒸発という点で共通している一方で、死刑制度は主観的なものである。
今作品の社会批判は、高齢者を対象とした一連の殺人事件の理由付けに機能している。
これらの殺人を支える人間主義的な理由にもかかわらず、これらの暴力行為は深く犯罪的である。 しかし、これは一部の読者を驚かせるかもしれないが、犯罪的な側面は、殺人の善意的な本質にあるのではない。
殺人を犯罪的なものにしているのは、同意の欠如である。
殺人者は、その善意とは裏腹に、主観的に法を前提とする。
彼は法の生きた文字となり、自らの主観的な苦しみを想像的に他者に投影することによって正義を作り出し、裁きを下すのである。
映画にしばしば登場するキリスト教の黄金律『自分にしてほしいと思うことを人にも施しなさい』は、その本質において深く想像上のものである。 自分がされたいと思うように他者を扱うという倫理的要求は、自分のエゴを他者に投影し、他者を単なる似通った存在に変えることで他者性を消し去ろうとする誘いともとれる。
というのも、一連の高齢者殺人事件は、どの殺人事件も、特にその発端となった殺人事件も、日本社会の場において、主体が自らの尊厳ある死を組織するための倫理的システムが欠如していることを反響させているからで、日本では、どのような状況(たとえば認知症が完全に進行した状態)で安楽死を望むかを、象徴法に従って主体が決定する可能性はない。
(因みに、象徴法てのはあるものごとを具体的なもの《シンボル》で表現する技法をいい、よく例として出されるのは『ハトは平和のシンボルだ』です。)
むしろ、高齢化社会の重圧に大きく呻吟している日本のシステムは、構造的に苦しんでいる高齢者の主体を失望させ、その継続的なケアに対する責任のほとんどを残された家族に転嫁している。
作中、社会から見捨てられたという感覚は、孤立を感じ、自分を刑務所に送るよう検察官を説得しようとする老女(綾戸智恵)のケースでも触れられている。
彼女にとって、自由を放棄することは、安心感を得るため、そして大切にされるために支払う小さな代償でしかない。
高齢者は肉体的・精神的苦痛を強いられ、介護者は肉体的・精神的負担を背負わされる。
構図の中には静的な瞬間も存在するが、前田監督 は主に緩急と抑制の効いたダイナミズムを駆使してストーリーを語る。
静的な瞬間が流動的に動的な動きに変わる。
場合によっては、蛇行するカメラが一瞬の間を取り、一瞬固定してから、ダイナミックな原点に戻る。
長めの静止画は、一般的に、キャストが物語の布に感情を吹き込むスペースを与えるため、つまり、シニフィエが感情的な影響を与えないわけではないことを示すため、あるいは、主観的な視点の違いや認知症の影響による会話の対立的な流れを強調するために利用される。
斯波宗典、猪口真理子の取り調べの断片を演出するために、静止画の連続も使われていた。
その結果、会話の対立の連結である物語の後半は、前半よりも静的やった。
今作品は安楽死について正しい問いを投げかけているのかもしれないが、日本社会の現場に関する批判的な分析を鈍らせるような、感情的で強引な装飾が施されている。
おそらく多くの方が感動的な展開に泪を流すだろう。
勿論、小生も哭けた。
しかし、社会批判でガツンと観客の目を覚まさせるよう作品にしたかったなら、メロドラマに徹した前田監督の選択をちょい嘆くかな。
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